英語が話せるかどうかは、英語の基礎力の有無より、話そうとする意志があるかどうかであって、それ以外の何ものでもない。
これは英会話に限ったことだけではなく、学問をする意志、学ぶ意志にも言えることで、必要性というものは、個々人の魂に染み込んでいる習性のようなもので、簡単に言えば、出来るかどうかは、やる気のスイッチが入るかどうかで決まる。
所詮人間は、自分の脳の10パーセントも使ってはいない。天才といえどもほとんどの方々は、潜在能力を眠らせている状態だ。
うちの子はどうして努力をしないんだろうと、お嘆きの親御さんが多い。僕も例外ではない(苦笑い)。頭の良し悪しを云々する前に、なぜ勉強しないんだろう。なぜ努力をしないんだろうという理由を考えてみると結構原因は見えてくる。
のんびりとした性格のこどもは、スイッチが入りづらい。のんびりしているのは、きっと競争するのが好きじゃないからだ。悔しさをにじませるこどもは、負けず嫌いで闘争心を表に出すが、平和主義者は傍観する。
家の経済力や、家庭の躾、そして友人関係などでこどもの習慣性、日常性は作られて行くのだが、根っ子の部分の本質は、彼、彼女自身が祖先から受け継いできた精神性(魂の習性)でその概要が形作られている気がする。
言ってみれば偶然性ではなく、必然と言えるかもしれない。人間にはそれぞれの役割分担がある。善悪の判断はさておいて、その人間を行動たらしめる力は、予めインプットされてきたもののような気がする。
時代を読む力や、自己分析を得意とする人間と、そうじゃない人間がいるけれども、そもそも生存本能が壊れてしまった我々人間は、教育されることでしか成長しないと断定されてしまった存在で、転生を繰り返す魂の存在であることを忘却してしまったか、もしくはそのようにされてしまった僕らは、あまりにも肉体の欲望にがんじがらめになってしまい、自由を奪われた存在になってしまった。
心が飛翔しないのは、死を恐れるからだ。1度きりの人生だとしたら、人間はためらうことは多い。自分の人生に固執する。1度きりだから頑張るという声を聞くが、その言葉に虚無感を覚えるの僕だけだろうか、
自分の欲望が本能だとしたら、きっと楽なのだろうけれど、それを社会性や環境から導き出されてきた病根のように解釈されてしまった我々人間は、とても窮屈な存在になってしまっている。
規範的なものがあまりにも常識になり過ぎて、教育も子育ても自由をなくしてしまった。小学校に入る年齢が統一されているが、果たしてそれが平等であるのかと考えると、個々人の能力を年齢で判断している社会の矛盾が見えてくるだろう。
人は母親から生まれてくるということに関して言えば、全て平等だ。しかしそれ以外は全て不平等だ。その不平等感を言葉や制度でごまかして平然としているこの社会というものは、やはり根本的に脆弱(きじゃく)でそして自由ではない。
たまたま優秀に育ったとか、ちょっとやんちゃに育ったとか、そういった偶然性に肩入れした表現で人間の性質を語ることが多いけれど、運命とか宿命という目に見えないものにゆだねてしまう傾向は我々にはある。
目に見えないものは信じたくない。その習性は頑固なまでだ。幽霊はいない。もちろん宇宙人も存在しない。見えないから信じない。常識的ではあるが、日常には見えなくとも存在するものは無数にある。
見えないから大丈夫。感じないから大丈夫という判断の方が実は僕らの肉体を蝕んでいるのだけれども、見えないものに対する防御が人間は弱い。
人間の学力をテストで数字化する教育は、目に見えないこどもの才能を汲み取るシステムが脆弱だ。こういった矛盾の連続の中で、僕らは知らぬ間に喪失感を身体に刻みこみ、自信を喪失していく。残念だ。
やる気を喪失する原因は、見えないものへの否定と信奉の混ざり合った人間の弱さだ。自由の意志が尊重されない社会だと洗脳されていく僕らの人生。言葉を不用意にあまりにも不用意に使いすぎる。
やる気の源は自分への心の言葉だ。自分を信頼する教育、自分を愛する教育、自分を鼓舞する教育が一番大切な時代のよう気がする。自分を愛せない者が他人を慈しむことは出来ない。自分をいたわることができない者が他人をいたわることが出来ない。
親の生きる輝き、先生の生きる輝きがこどものやる気を引き出す。だから親は自分を愛せなければいけない。教師は自分を愛せなければいけない。そうじゃないだろうか。
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