死を学ばなければならない
愛する家族や友人が亡くなるのはとても悲しい。しかし人間は間違いなく死んでいく。
人生で築きあげてきたものが、有形、無形にかかわらず消滅していくことははかなく、そしてやりきれない。この世から消滅することが恐ろしいというよりは、自分の存在が人々の中から忘れられて行くことが寂しいのかも知れない。
学校をはじめとする教育の現場では、死について学ぶことは少ない。どちらかと言うと忌み嫌うものとして遠ざけられている感さえする。
実は僕は死というものにはあまりこだわっていない。どんな死に様でもいいと思っている。人生にはタイミングというものがある。つまり生まれてくることも、この世を去ることにもタイミングがあるのだと思っている。
素晴らしい人生だとか、はかない人生などという表現があるけれども、全ての人の人生は、その人達が描いたものなのではないだろうか。努力をするのもしないのも自由選択だ。
確かに家庭環境やまわりの教育環境に人間は左右されるけれど、それさえ、人間が選択しているものだと僕は考えている。
頭が悪かろうが、良かろうが、物事を想像する能力に大差はない。自分の将来を展望出来ないのは、自分を信じていないだけだ。自分に責任を持つことが出来ないから、世の中に頼ってしまう。
生きることさえ頼ってしまったら、いい死に方は出来ない。人間の運命は、運がいい方がいい。僕はこのブログで何度か述べてきたけれど、教育のベースは、運のいい子どもを育てることだと思っている。そのためには死を学ばなければならない。
そしてそのことが、祖先を敬う精神や、目に見えない力を信じる源になるんじゃないだろうか。人間は死んだら終了ではない。あなたを愛した皆さんは、死んでもあなたを愛している。その愛に報いるためにも、僕らは正しい生き方をしなければならない。
正しく判断することは難しいけれど、正しく生きることは難しくない。人と仲良く生きていけばいいのだ。簡単なことなのに出来ない人たちが多い。人を裏切らない。人を陥れない。そして他人の生き方を尊重する。
人は価値観が違って当たり前、習慣が違って当たり前、そのことを異質なものとして排除するから、人類は戦いをやめない。
殺せば人は死ぬ。病気でも死ぬ。そして事故でも死ぬ。それでその人の意識が地球上から消滅したと思ったならば大きな間違いだ。とある宗教は、死は敗北だと看破するけれど、死は敗北じゃない。さらなる人生のためのスタンバイ期間に突入しただけのことだ。
愛を与えれば愛が返ってくる。憎しみを放てば、憎しみが返ってくる。今回限りの人生ならば死と共に相殺されるかも知れないが、そんなに人生は甘くはない。僕は残念ながら霊能者でもないし、なにかの特殊能力を有する人間でもない。30年間先生と呼ばれる仕事をやってきたけれど、その呼び名に値する人間でもない。
でも確信はある。人生は繰り返す。人生で足りなかった部分を補うために。学ばないでしまったものを学ぶために。だから死んでもその困難からは逃れられないのだ。
だから生きればいい。幸せに生きたいのなら幸せに生きればいい。人を思い遣る人に不幸は訪れない。やさしい言葉を、心から発する人に不幸なんか訪れるはずがない。言葉は大切だ。言葉は現実を創造していく。言葉は想いだからだ。
相手の悪口を言って、相手が変わるだろうか。自分をけなして、自分が向上していくだろうか。相手を批判するならば、その相手の3倍も4倍も努力しなければならない。それが出来ないなら、人が見ていないところで、黙々と善行を施して行けばいい。人生はきっと覚醒して行く。
学歴も通帳残高も、そして社会的地位さえも、死には勝てない。しかし愛や想いは持ち越して行ける。そしてそれが新たな人生の運を形作って行く。僕はそのことを信じている。
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