英語もどき
今回のセンター試験の英語を、高校1年、2年生が塾で解いていた。僕が強制したのではなく、学校から出された宿題としてやっていた。
僕に聞いてくるのは、単語の意味。特に1年生にとっては、まだまだセンターの長文は咀嚼出来ないようだ。まあ仕方がない。
各高校の英語指導も大変そうだ。市内の高校が使ってきた参考書や単語ワーク等25年間眺めてきたが、必死の試行錯誤だ。
センターの英語の点数の比重を考えると、英語は決しておろそかに出来ない。しかし何故か進学校の高校生は数学に情熱を注ぎ英語が手薄になる。最後は想像力と感にたよって、長文を読んでいく。困ったものだ。
特に理系の生徒は構文やイディオムを無視して、ニュアンスで解こうとする。昨日の続きの話ではないが、やはり文法や構文の基礎力は大切だ。
全教科をやらなければいけないから、英語だけに時間は取れないと受験生は言う。至極当然の意見であり、ごもっともな話だ。
数学の先生は、数学を頑張れと言うし、国語の先生は国語を頑張れと言う。これまた至極当然のことだろうと思う。
国語も英語も文法は嫌いだという声を聞く。なしかし文法は大切だ。なぜなら言葉の持つリズミや決まりを身につけることは、頭脳を整理整頓するのに役立つし、理論武装した知識は定着した後、頭脳を裏切らない。
昨今、英語教育に対してはいろいろなアプローチがなされているわけだが、公立高校で英語教師をしている先生が面白いことを言っていた。本当に英語が出来るなら、英語教師なんかしていませんよ。格言だ。
中学や高校で英語を教えている先生も、塾で英語を教えている先生も、質はそれほど変わらない。日本人の英語力が世界水準に追いつかないのは、英語教育および英語の指導者に問題ありと言われて久しい。
高校入試や大学入試の英語を解くために必要な指導を要求されているのに、コミニュケーション能力云々を言われても迷惑だという教師の声も多い。本音だろうと思う。
英語を駆使して世界を駆け回っているビジネスマンも、最初は学校の英語教育の洗礼を受けたはずだ。英語をものにしたかったら学校など頼らず自分で頑張れとというのが僕らの世代の英語学習だった。
英語塾に行くには、足もなければ金もない。海外留学夢のまた夢。大学は入ったものの学費を稼ぐために日夜バイト。そんな世代だ。でもなんとか英語に喰らいつき、英語もどきを教えてきた。
そう英語もどきなのだ。受験に必要な知識は持っている。偉そうに英語の教師をやっても所詮英語もどきなのだ。僕はだから生徒の前では謙虚でありたいと思ってきた。受験英語を教えることには自信があるが、英語には自信はない。
最近は講師に行っている高校のアメリカ人教師にも文法の説明を求められる。アメリカ人も文法は難しいと言う。そりゃそうだ。僕らだって自分が使っている連体修飾語が形容詞か形容動詞か連体詞かなんて考えて話したり書いたりはしない。
しかし襟を正して文法書を読むと、言葉というものの生命力というのか、したたかさを感じる。
受験生にとって正念場の時期だが、学問は無駄にならないことを力説して、今日のブログを終えたい。英語は英語もどきでも役に立つ。信じよう。
« 英語教育にひとこと | トップページ | 田舎くらしか・・・ »
コメント