夢の預かりもの
塾にやって来る児童や生徒たちに教科を教えているわけだが、僕の偽らない感覚としては、子どもたちの夢を預かっている感じがする。つまりは夢の水先案内人と言うところだろうか。
いつも塾生の前で、苗字にカネがついているのに、カネがないカミがないと自虐ネタを連発する僕だが、いつまでも夢を与えられる大人でありたいと思っている。
優秀な高校や大学を出た人間が、子どもたちを教え諭すことは、至極当然で、そこに何らかの偶然性や共時性を見出すことに、それほどの違和感はないだろう。しかし、僕のようなやんちゃな不良時代を、やんちゃな私立高校や大学で過ごした人間が、ああでもない、こうでもないと試行錯誤し、生意気にも先生と呼ばれながら、やくざ顔で偉そうにしていることに、意外性というのか、ハッタリというのか、そんな勉強の場もあっていいのではないかと、思っている。
いっちゃ悪いが、公務員やもしくは一流企業に入らない限り、どこの高校を出てもどこの大学を出ても、いい加減年を重ねればそんなことは関係ない。どうでもいいなんて言ってしまうと、今頑張っている生徒に対して暴言に聞こえてしまうが、偽らない僕の本音だ。
どこを出たかではなく、何をやれるか、もしくはやってきたかが勝負だろうと思う。30代までは、親からの遺伝かなんか知らないけれど、顔形のよさ、もしくは頭の働き具合は、生まれつきみたいなところはある。しかし40も過ぎれば、生き様が顔にでる。いや全身のオーラに現れると言っても過言ではないだろう。
ところで話はかわるが、結婚式や告別式で、高校の同級生達が肩を組んで、母校の応援歌を歌うという光景を目にする。特定の人たちにとっては感動的かも知れないけれど、周りを見渡すとしらけている人もいる。実は僕もその1人だ。
失礼だけれど、進学校じゃない普通高校や、地元の私立高校を出た人間はそれはやらない。いや実際はあるのかも知れないが、半世紀以上生きてきた僕は経験がない。
やはり自分が出た学校によほどの愛着というのか、思い入れがあるのだろうと思う。羨ましい限りだ。僕はそういう母校の愛着心いっぱいのセレモニー列席するたびに思うことだけれども、二極化的な感想を抱く。
つまり、そういった母校愛的な誉れの精神が、人生の逆境に立った時に、前進する力となる場合と、過去の栄光に自分を封印し、沈黙を続けてしまうケースだ。
40も過ぎて、自己紹介の時に、出身高校や出身大学を言う営業マンや業者の方がいらっしゃるが、すごいな~と思う。フェイスブックなどもそうだ、紹介蘭に高校や大学名が堂々と記載されている。
僕はそれがいいとか悪いとか言っているんじゃなくて、そういう人たちが増えた日本の社会って、やっぱり変遷しているんだなと実感する。
僕は劣等感の塊だから、塾生やご父兄以外には、自分の履歴など語れない。僕はその劣等感をバネにして頑張ってきたところがある。決して健全ではないが、僕がチョイスしてきた生き方だ。
僕の人生は成功という文字とは、程遠いところにある。でも、勉強が苦手だった僕のような人間でも、学問に関わる仕事は出来るんだよというテーマのようなものを生徒に示すことは出来る。
僕は反面教師であることで、生徒たちの夢を後押ししたいと考えてきた。そして今後もその姿勢は変わらないだろうと思う。
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