最近のトラックバック

« 東京が変われば、日本が変わる | トップページ | 本当は働けるのに働かない若者の存在が、働くことが困難な若者の存在を危うくしている »

2014年1月15日 (水)

夢の預かりもの

塾にやって来る児童や生徒たちに教科を教えているわけだが、僕の偽らない感覚としては、子どもたちの夢を預かっている感じがする。つまりは夢の水先案内人と言うところだろうか。

いつも塾生の前で、苗字にカネがついているのに、カネがないカミがないと自虐ネタを連発する僕だが、いつまでも夢を与えられる大人でありたいと思っている。

優秀な高校や大学を出た人間が、子どもたちを教え諭すことは、至極当然で、そこに何らかの偶然性や共時性を見出すことに、それほどの違和感はないだろう。しかし、僕のようなやんちゃな不良時代を、やんちゃな私立高校や大学で過ごした人間が、ああでもない、こうでもないと試行錯誤し、生意気にも先生と呼ばれながら、やくざ顔で偉そうにしていることに、意外性というのか、ハッタリというのか、そんな勉強の場もあっていいのではないかと、思っている。

いっちゃ悪いが、公務員やもしくは一流企業に入らない限り、どこの高校を出てもどこの大学を出ても、いい加減年を重ねればそんなことは関係ない。どうでもいいなんて言ってしまうと、今頑張っている生徒に対して暴言に聞こえてしまうが、偽らない僕の本音だ。

どこを出たかではなく、何をやれるか、もしくはやってきたかが勝負だろうと思う。30代までは、親からの遺伝かなんか知らないけれど、顔形のよさ、もしくは頭の働き具合は、生まれつきみたいなところはある。しかし40も過ぎれば、生き様が顔にでる。いや全身のオーラに現れると言っても過言ではないだろう。

ところで話はかわるが、結婚式や告別式で、高校の同級生達が肩を組んで、母校の応援歌を歌うという光景を目にする。特定の人たちにとっては感動的かも知れないけれど、周りを見渡すとしらけている人もいる。実は僕もその1人だ。

失礼だけれど、進学校じゃない普通高校や、地元の私立高校を出た人間はそれはやらない。いや実際はあるのかも知れないが、半世紀以上生きてきた僕は経験がない。

やはり自分が出た学校によほどの愛着というのか、思い入れがあるのだろうと思う。羨ましい限りだ。僕はそういう母校の愛着心いっぱいのセレモニー列席するたびに思うことだけれども、二極化的な感想を抱く。

つまり、そういった母校愛的な誉れの精神が、人生の逆境に立った時に、前進する力となる場合と、過去の栄光に自分を封印し、沈黙を続けてしまうケースだ。

40も過ぎて、自己紹介の時に、出身高校や出身大学を言う営業マンや業者の方がいらっしゃるが、すごいな~と思う。フェイスブックなどもそうだ、紹介蘭に高校や大学名が堂々と記載されている。

僕はそれがいいとか悪いとか言っているんじゃなくて、そういう人たちが増えた日本の社会って、やっぱり変遷しているんだなと実感する。

僕は劣等感の塊だから、塾生やご父兄以外には、自分の履歴など語れない。僕はその劣等感をバネにして頑張ってきたところがある。決して健全ではないが、僕がチョイスしてきた生き方だ。

僕の人生は成功という文字とは、程遠いところにある。でも、勉強が苦手だった僕のような人間でも、学問に関わる仕事は出来るんだよというテーマのようなものを生徒に示すことは出来る。

僕は反面教師であることで、生徒たちの夢を後押ししたいと考えてきた。そして今後もその姿勢は変わらないだろうと思う。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ僭越ながら教育ブログランキングに参加しております。よろしければ応援の一押しをお願い致します

« 東京が変われば、日本が変わる | トップページ | 本当は働けるのに働かない若者の存在が、働くことが困難な若者の存在を危うくしている »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/402165/54614061

この記事へのトラックバック一覧です: 夢の預かりもの:

« 東京が変われば、日本が変わる | トップページ | 本当は働けるのに働かない若者の存在が、働くことが困難な若者の存在を危うくしている »