思い出の中の明かり
我が家に初めて蛍光灯がついたのはいつだったろうか。記憶の中から浮かんで来ないけれど、裸電球のもとで正座をして夕食を食べていた光景は、今でも脳裏にかすかに残っている。
テレビがなかったので、昭和39年に開催された東京オリンピック前の記憶だろうと思う。その頃の我が家は茅葺屋根のクラッシックな家で、囲炉裏の煙を逃がすための煙穴が屋根にあって、そのために天井板がなく、煙で真っ黒くなったかやの中に、まるで幻燈のように裸電球が薄ぼんやりと光っていた。
水道というものがなかったので、洗い物は極力簡素化されていた。夕御飯を食べた後は、囲炉裏で沸騰している鉄瓶のお湯をお茶碗に注いでもらい、漬物のたくわんで茶碗をなぞり、白湯を飲み、そしてお膳に茶碗をふせて食事を終えた。そしてそれがそのまんま翌朝のお茶碗となる。不衛生と言えば不衛生だが、合理的といえば合理的だ。
僕の父は都会に出稼ぎに行き、母は病気がちだったゆえ、一人子の僕は、明治32年生まれの祖父といつも一緒だった。三つ子の魂百までと言うが、祖父の教育の影響が少なからず大きかったように思う。
僕は風呂は5分であがるし、女房が用意してくれるご飯は10分もしない内に平らげてしまう。いつも怒られっぱなしである。
「いったい何処を洗っているのよ」とか「もっと味わって食べなさいよ」等の小言が、ジャブのように浴びせられる毎日である。
祖父の呪文のような言葉がよみがえって来る。風呂が長いのと、メシが遅い奴は出世しないぞ。
今思うと軍隊教育の名残だった思うわけだが、祖父の言葉を忠実に守ってきたわりには、残念ながら出世とは縁のない人生だったようだ。
蛍光灯の明るさより、裸電球のほのぼのとした光が好きな僕は、やっぱり華やぎとは縁がないようだ。
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かねごん先生こんばんは。懐かしい写真に見とれてしまいましたが、カラー写真なのでおそらく当時住まわれていた写真ではないですよねたぶん。僕も全く同じような暮らしでしたが、小さい頃には既に改装して天井は有りました。長兄はこのような風景を覚えているかもしれません。大黒柱といい梁といい、釿(ちょうな)掛けの家でしたので都会のマッチ棒にような柱を相手に仕事をしている僕としてはなんとも切ない気持ちになります。(そんな家すら持てないという意味でですが....)さて、僕は自宅に於いて、ペンダントとスタンドのみで夜を過ごしております。(連れはあまり好きではないようですが...)
以前仕事で東南アジアに行った時に、質素な住宅にも関わらずどの家の窓から蛍光灯が近代的な光りを放っていました。聞く所によると蛍光灯を使う事が一種のステータスなのだとのこと。かつての日本も同じ状況にあったのだろうと思うのですが、欧米では決してみられない光景です。これは僕の私見ですが都会で数多く存在するマンションの夜景を見て、マンション全体がオレンジ色の窓の光で満たされていればそれは高級マンションと考えて間違いありません。僕らが昔暮らした裸電球の暖かいオレンジ色のあかりは、今思えばセンスのいい暮らし方の一つだったのだと気づかされます。本当の豊かな暮らし方とは何かを、少しは考える必要が有るのではないかと...。そして写真のように縄でしばった黒光りする小屋組の下で水割りやコーヒーを呑む贅沢をいつかはしてみたいものだなーとつくづく思います。
(かねごん)
shinkunnopapa様おはようございます。
茅葺屋根の時代の記憶は、ほのぼのとした記憶ばかりではないのですが、電化製品に取り囲まれた暮らしが、日常化してしまった今の暮らしよりは、精神の安らぎがあったような気がします。
今朝の一関は雪のような霜が降りました。冬が近づきました。温かいコメントに心がほっとしております。ありがとうございます。
投稿: shinkunnopapa | 2013年11月 2日 (土) 01時35分