人生の運・不運
誰の人生にも運・不運がつきまとう。しかし一生涯幸運の絶頂期などという人生もなければ、ずっとどん底の人生などというものも無いはずだ。
人生に於ける幸運の量とか不幸の量など決まっているはずもないのだけれど、人は為す術もない逆境に出逢うと、いとも簡単に諦観を身にまとってしまう。全ての人間が幸福に生きて行くことは、困難なことなのだろうか。搾取する人間と、搾取される人間がいて、楽ができる人間とそうじゃない人間がいる社会が、当たり前だと思ってしまうこの世界の構造に、反逆をしない人生であってはいけないと思う。
逆境から逃れるのに必要なものは、努力であり感謝だと分かっていても、実行する以前に、マイナスの思考に呪縛され、その糸口を見つけられないでいる人達も多い。
宗教や啓発セミナーなどに身を寄せる人はまだしも、アルコールや薬物に依存する多くの人達の末路は哀しい。
子どもの頃から、勉強が出来る出来ないという評価をくだされ、あらゆる場面で他人との競争を強いられてきた僕らは、嫌というほど負けることの後味の悪さを経験して来た。収入や地位という尺度の中でもがき苦しむことのはかなさを知ってはいても、不安な現実が常に足元の砂をえぐりとっていく。
人生に於いて失敗する時は、必ずその前兆はあるものだ。突然絶望の淵に立たされることはない。友人の声や、何気ない偶然の中に、警告は発せられている。
宗教や怪しげな思想に耽溺する前に、自暴自棄になって酒や薬物に手をだす前に、生活を立て直す道は必ず身辺にあるものだ。
努力をしてもだめだったという声を聞くけれども、本当に努力をしただろうか。努力をする振りをしただけではないだろうか。真剣な努力が報われない人生なんて無いと僕は思っている。
何事も3年頑張れば芽が出る。7年頑張れば道ができる。10年続けられれば食べていける。才能や力量なんて関係ない。80年の人生の中で、わずか3年も頑張れなくて、頑張ったのになんて言っちゃいけない。
幸運は自分で呼び込むものだ。不運は自分で防ぐものだ。寝たいときに寝て、みんなが遊んでいるからといって一緒に遊んでいたら幸運なんてやって来ない。人が惰眠をむさぼっているときに努力をして、人が遊んでいる時に努力をして、そして空いた時間は、人のために奉仕して常に自分を磨くことだ。そうすれば幸運や不幸なんて思う間もなく人生が過ぎて行く。
我欲に縛られることなく、地球意識で世の中を見てみる。心が軽くなれば、人生はきっと楽しい。
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