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2013年11月20日 (水)

紆余曲折の中で

人生には何度も谷や山が訪れる。若い頃の谷や山はなんとかなるが、年をとってからのアップダウンはキツイものだ。

若いうちの苦労は買ってでもしろなんて言われるが、苦労しすぎて潰れても困るわけで、ホドホドの苦労でリスクを避けたいものだ。

ところで頑張ってもあがいても陽の目を見ることがなかったという人が居るわけだが、成功という観点は非常に主観的なもので、結構人生はいい感じなのに、何故か不平が先行する人が多い。

腹八分目という言葉があるが、欲望もきっとギラギラし過ぎると、なかなか成就しなような気がする。

仕事でも勉学でもそうだが、自分の望みをゴリ押しすれば、必ず人間関係に歪みが生じる。かと言って遠慮ばかりしていちゃ家庭や家族を守れず、大変なことになってしまう。共栄共存というのは口で言うのはたやすいけれど、現実問題として、利己的な精神をどう改変して行くのかは、様々な紆余曲折を伴い、数々の試練が待ち構える。

かく言う僕も、ここ3年余りその紆余曲折を経験し、スランプに陥っている。東日本大震災いう大きな出来事があったわけだが、僕はどうも仕事の不調を全て震災のせいにしてきた感がある。

震災と放射能の責任にしておけば、自分の仕事の不調を皆が許してくれるんじゃないだろうか。そんな甘えがあったように思う。

塾屋稼業というものは、実に不安定な仕事だ。全員志望校合格を果たしたから入塾が増えるかと期待すればさっぱりだったり、不本意な結果にもかかわらず、入塾生の数が伸びる年もある。

また手塩にかけて面倒を見ていた生徒が、受験直前に他塾に移動なんてこともある。散々指導の要求をしてきて、月謝を払わないでグッパイなどという輩もいる。不条理と切なさが交錯する業界でもある。

受かれば本人の努力。落ちれば塾の責任。これが我々塾屋の掟だ。

一関の街中からは震災の傷跡は消えた。崩壊した体育館も、結婚式場も、寸断された幹線道路も、アメのようにまがった鉄道線路も、全てが、遠い昔の出来事であったかのようだ。

ただ放射能だけが未だに居座っている。しかしそれさえも、マンネリ化した警告に飽き飽きしたかのように、意図的にか、もしくは無意識に無関心を装おう多くの人達が、普通に魚を食べ、普通に山菜を食べている。

そして凄い勢いでお年寄りたちが亡くなっている。今月も僕の家の周りでは4件の葬式が執り行われた。震災以後ずっとこんなペースである。

しかし附属の中学入試や高校入試の試験は、何の変化もなく継続され、受験生は受験生であることを強いられ、ごく普通に日常が繰り返されて来た。

あれほど一関の放射能汚染が騒がれた時にさえ、放射線量の低い町から、わざわざ一関の附属中学校に合格したいと、多くの子どもたちが集って来た。倍率は毎年うなぎ登りだ。

僕は至って冷静な人間だと、自分自身を自己評価している。しかしそんな僕が、ここ3年間書き綴ってきた文章は、冷静さを失っているものが多かった。その感情や精神性がそのまま仕事にも影響した。

受験なんかどうでもいい。子どもを守ることが最優先だ。そんなことを思い奔走してきた自分が道化師などと思いたくない。ただ思いたくはないが、そんな僕を冷ややかに見て来た人間も多いのだろうと思う。

震災後自宅の除染や何やらで僕の蓄えは、底をついた。大学に進学する息子のお金のことを考えて、秋からはずっと胃が痛かった。先週なんとかその金銭面のめどがたった。息子を短大になんとか進ませることが出来そうだ。

年を取ってからの谷や山はやっぱりきつい。しかしキツイけれど渡りきらなければならないものは、渡らなければならない。震災の責任にばかりしていては、先には進めない。まだまだ鍛えなければならないかねごんである。

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