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2013年11月17日 (日)

瞑想のすすめ

当たり前のことだけけれども、人間は間違いなく死んで行く。どんな人にも生命が終わる時がやってくる。その点に関しては皆平等だ。

90歳になる方が、例えば一生懸命パソコンを学ぼうとしている。もしくは余命わずかな方が、新たな分野の読書に耽溺する。

「どうせ短い命なんだから、なんにもやる必要がないんじゃないの」、なんて思っている人が居るとするならば大間違いだ。

死は訪れるかも知れないが本質的な命は終わらない。魂と言ってしまうと、嫌な感じを持たれる方がおられるかも知れないので、あえて命の本質と呼ばせてもらう。

このブログで随分とスピリチュアルなことを書いてきた。そのためだろうと思うけれど、結構多くの人に、あっちの世界の質問を頂く。

人間がもし一度きりの人生のためにこの世に存在するとするならば、それはそれでとてもドラマチックだと思うけれど、いろいろと身の回りの検証をするならば、どうもそうではないらしい。

生まれつきの才能や、技能は、両親からの遺伝的性質や、育つ環境では説明がつかないことが多すぎる。確かに偶然と言ってしまえば、さもありなんということになるのだろうが、人生に偶然はないという僕の哲学からすると、やはり人間の本質は単純なものではなさそうだ。

20代の半ばから、人間は何のために生まれて、何のために人生を生きて行くのだろうかと、青二才の文学青年である僕は、ずっと考え続けてきた。その答えは50を過ぎた今でも、得ることは出来ないでいるが、出口ぐらいはほんの少し、見えてきたような気がする。

30年間、塾を通じて子どもたちの教育に携わってきた。子どもたちのやる気や、精神性の多様性は何によって培われてきたのかを考えない日々はなかったと言っても過言ではない。

若いころ神様や宗教に嫌悪感を抱いていた僕は、文学や心理学にその疑問点の解答を求めてきたのだけれど、人間の本質が肉体的な制約にがんじがらめになっていることだけは、十分理解できた。

人間性の開放は、死によって完結するわけではない。生きている間の勉学や努力の集大成が、たった一度の人生で完結するほど、僕らは素晴らしい生き物だろうか。世の中を見渡せば一目瞭然だ。

欺瞞、放漫、奢り、プライドという名の利己主義。拝金主義の資本主義社会の中で、多くの人間がもだえ苦しんでいる。残念ながら僕もその一人だ。

答えのない人生はない。本当はみんなが生きる理由を知っている。しかし、それに気づくことはひょっとするとそんなに大切なことじゃないのかも知れない。大切なことじゃないかも知れないが、必要なことのような気がする。

ケータイやパソコンから離れ、一日に10分でいいから、心を安らぐ場所に置き、瞑想してみてはどうだろうか。自分自身を感じる時間を持つことで、生きることがもっともっと楽になるような気がする。

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