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2013年10月21日 (月)

平等という前提

全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)について、文部科学省は、来年度から区市町村教育委員会の判断で学校別成績を公表できるよう実施要領を見直す方向で検討に入ることが20日、わかった。

 学校間の「過度な競争や序列化」を招くとして公表は禁じられてきたが、一部自治体などから公表を望む声が強まっていた。専門家会議で11月末までに公表方法についてとりまとめ、要領を改定する方針だ。

 同省は学校別成績について、区市町村教委による公表を禁じ、各校の判断で公表することのみ認めてきた。しかし、大阪府泉佐野市が昨年10月、今年度のテストで市立小中学校の成績を公表する方針を一時打ち出したことを機に、同省は今年2月、来年度以降のテスト結果について公表のあり方を検討する姿勢を示していた
。読売新聞

学力テストを実施することで、文科省は何をしたいのかということをはっきり意図していないことが1番の問題だろうと思う。

過度な競争を煽らないための未公表と言うが、各県に附属中学校が誕生し、小学生の中学受験が加熱している昨今、白々しい言い訳にしか聞こえてこない。

勉学に劣るものは、生きていくことが大変だよ。だから必死に学校の勉強をすべし。という暗黙の認識が世の中にはある。これを誤魔化してオブラートで包んでも、現実としての競争社会のなかでは、やはり優秀な人材が地位と財力を手にしていく国であることは間違いない。

計算ができ、語学が堪能で、文章力があって発言が巧みな人間を育てるのが教育の目標だというのならば、確かに日本の学校教育は間違った方向には進んでいないだろう。

しかし、そのような教育になにか割り切れなさや、矛盾を感じている人達が多いのも現実だ。

能力や人間の資質を平等だという前提で進めていく教育のあり方が、今1番問われている問題点だと僕は思っている。

マルチ人間を育成する教育では、弱者を救済できないだろうし、かと言って学力重視の受験体制を破棄することも到底出来ないことだ。

日本社会には肉体労働者を軽視する風潮がずっと根強く残っている。農民に対する歴史を眺めれば一目瞭然だろう。体を使い、汗水流しながら働く労働を毛嫌いする日本人の物の考え方が、実は日本の教育を歪めてきた原因の一つではないだろうか。

労働の代価は生活の安定である。勉強の代価はなんだろうか。この答えが有耶無耶にされる社会こそ、僕は偽りの社会だと思っている。自殺が増えるのも、精神疾患が増えているのも、希望格差社会が蔓延して行っているのも、教育が、汚いものに蓋をするような、偽の金メッキを貼り付けるような、教育を施行してきたせじゃないだろうか。

出来なければ出来ないなりの生き方がある。馬鹿は馬鹿なりの生き方があるのに、その馬鹿さ加減を認めさせないし、認めようともしない。その結果、馬鹿の良さを抹消した社会を作ってしまった。

中途半端な利口者は食べていけない社会を作ってしまったと僕は思っている。

障害者に対する政策も全くひどいものだ。施設に召喚し、当たり障りのない軽作業をさせおけばいいだろう的な発想しか見えてこない。違うだろう。彼らだってお金を稼ぎ結婚をして自立したいのだ。そのためには人の数倍の努力が必要だ。現在の学校教育では戦線離脱を余儀なくされてしまう。

人間は身体能力も頭脳も様々だ。優秀な人材だけが、豊かな暮らしを保証される社会なんてどうみてもおかしいだろう。それを平気で推進してきた日本の教育は、全然優しくない。優しくないから行きたくなくなるし、問題が多いのだと思う。

優しい教育にしなければならない。

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