最近多くの方が、リストに様々な石のリングをつけていたり、エネルギーを増幅するようなペンダントをつけている方が増えた。そういう時代なんだろうと思う。
俗にいう波動をいうものを多くの方々が気にし始めたのだろうと思う。宇宙や地球と我々人間が、リンクしている存在であることを感じているのかも知れない。
僕は龍神が好きな神社オタク人間だが、古代から信仰されてきた磐座(いわくら)やストンサークルにただならぬ興味を感じてきた。一関の周辺には、縄文の時代から信仰されてきたであろうそういった遺跡が数多く点在する。いわゆるパワースポットと言われる場所だ。
水沢の正法寺・平泉の達谷窟・衣川三峰神社・束稲山・そして舞川の烏兎ヶ森の巨岩など、その磐座に佇むと、古代からの祈りの風が吹いてくる。
人間はいつの時代も幸福を追求する存在なんだろうと思う。どんな時代であれ、生きていくことが最優先せれてきた我々は、この世界をどんなふうに捉え続けてきたのだろうか。
僕は、この世界は我々人間の内面が創りだした世界だと思っている。起っている事象が幸福ととらえるか不幸と捉えるかは、まさにその人間の想いのキャチする波動によって構築されていく。
自分は、この世界では生きるに値しない惨めな存在であるとみなせば、そのような世界が醸しだされ、繁栄と栄光の存在物だと自覚している人間は、そのような力強い世界を生きていく。
運命や宿命があるとすれば、心の映像力、想像力の違いではないだろうか。心で思わないことは、実行することは出来ないだろうし、現実にしていくことは難しい。
そういった点では、テレビという映像機器が発明され、我々人間の感情や想像力がマスメディアによって支配されてきた。善なるものと悪なるものが増幅されてきたと言っていいだろう。人間は2分化されてきた。知らぬ間に幸福感が淘汰され、また架空の哀しみに打ちひしがれている人間。一方愛に導かれ、感謝することの日常を神心として体感できる人間。
死についてもそうだ。子どもたちが読む多くの漫画を見てみるとよい。人間はいともたやすく殺され、そして再生していく。生きることの重心が歪んで当たり前だろう。性描写を管理する前に、やらなければならないのは、安逸な死の再生だ。
宇宙人がいるとかUFOに乗ったとか乗らないとか、そんな話題を多く耳にする。地球に人類が誕生して100万年、2000年前に新石器時代から文明を作った人類は、宇宙に人間を送り出し、コンピューターを世界にめぐらし、人類を7回も終焉させることが出来る核爆弾を保有した。
98万8000年も、人間が進化することなく石斧と槍を手にしたまま生きてきたと思うほうがおかしいだろう。2000年間でこれほどテクノロジーを発展させた人類が、数十万年沈黙をしていたと考えることの方が異質だと僕は思う。
度重なる地球の環境の悪化に、他の惑星に避難したかつての人類がいたかも知れない。過去が劣っていたと考える発想は僕らの奢りだ。地球にやってきている宇宙人らしき存在は、僕らの祖先と考えれば、多くの謎が解ける。
僕らの肉体は電子顕微鏡で覗けば分かる通り、原子と分子の巨大な配列の空間によって造られている無の存在だ。ありとあらゆる存在物がそうだ。そのひな形は宇宙そのものだ。実態がない無の存在が、思考や感情を持つ存在物として創造しされ生命を宿している。
人間の脳細胞は数十億の細胞でできているようだが、そのスーパーセントしか使われれていないと言う。僕はこれを人間の退化だと思っている。かつての人類は、木々や大地や岩や植物と、神の声である感情の交流を可能にする能力を有し、星の波動と連携して、自分の中の神と交流できた存在じゃなかったかと思っている。
時間という概念にからめとられ、自分の感情を拡散できなくなった存在。自分の人生が思い通りにならないのは、努力が足らないと思うのではなく、運命や環境のせいにしてしまう存在。
努力することが出来ないのも、環境のせいだと言うのなら、いったい僕らの存在の価値観はどこに根ざすのだろうか。願いが叶う石や波動水をいくら身につけたところで、自分の目指す理想が描けなければ、単なる慰めとしてのガラクタに過ぎない。
東日本大震災の後、僕の周辺では霊性に目覚める人たちが増えている。お金や権力と言った価値基準を人生の根底に置くことをやめ、自分らしき生きるということに、想いを強く抱く人たちが増えている。
それは決して諦観などではなく、欺瞞などではなく、新しい時代を創造したいという魂の希求なのだと思う。時代は今大きく転換している。
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