「事故は予見できなかった」という常套句
兵庫県尼崎市で2005年4月、乗客106人が死亡した福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたJR西日本歴代社長で元相談役の井手正敬(78)、元会長南谷昌二郎(72)、元社長垣内剛(69)3被告の判決公判が27日、神戸地裁であり、宮崎英一裁判長は「事故は予見できなかった」としていずれも無罪(求刑禁錮3年)を言い渡した。
事故をめぐり、神戸地検が同罪で在宅起訴した山崎正夫元社長(70)は昨年1月、同地裁で無罪判決を受け確定しており、経営幹部の刑事責任は全て否定される結果となった。
井手氏ら3人が社長在任時、現場カーブでの脱線の危険性を予見でき、自動列車停止装置(ATS)の設置を指示する義務を負っていたかが争点。検察官役の指定弁護士は、現場カーブの半径を半減した工事や、列車本数を増やしたダイヤ改正などから危険性を認識できたと主張していた。
宮崎裁判長は、事故発生までにカーブにATSを設置していた鉄道事業者は少なく、法的にも整備は義務付けられていなかったと指摘。その上で、「3人とも現場カーブに着目したことはなく、速度超過による脱線転覆事故が起きる具体的な予見可能性があったとは認められず、ATS整備を指示するべき注意義務はなかった」と結論付けた。
同裁判長は言い渡し後、「こういう大きな事故で、誰一人刑事責任が問われないことをおかしいと思うのももっともだが、JR西でなく社長個人の刑事責任を追及する以上、厳格に考えなくてはならない」と付言した。 時事通信
裁判は公正であるべきものだ。司法・行政・立法の三権分立が明確にされている日本国憲法のもとでは、裁判所の判断は、世の中の感情や利権に左右されることなく、遵守されるべきものだ。しかしどうも昨今の司法の判断には、異質な不調和音が聞こえてくる。
福知山脱線事故は、あまりにも多くの犠牲者がでた痛ましい事故だった。遺族の皆様の心痛な想いは、癒やされることはない。
鉄道の事故が相次ぐ中、注目された裁判であったが、経営者トップの刑事責任は問われなかった。
震災時の東京電力福島第一原子力発電所事故の時もそうであったように、「事故は予見できなかった」という常套句が、大手を振るってまかり通って行く。
企業にしても学校にしても、組織のトップの役割というものは何かということを、考えるべきだ。簡単に言えば組織の全権者であり、最高責任者である。
トップである彼、もしくは彼女の思想や想い言動、そして日常性がその組織に反映されるといっても過言ではないだろう。高い報酬には、それなりのリスクが伴うのである。僕はそう考えている。
予見できなかった。指示できる立場ではなかった。人間として大きな組織の大梶を取ることは確かに困難なことだ。しかし、その言い訳を許してしまえば、起こりうる全ての事故は、必然的に起こってしまう。
利権や派閥で組まれていく人事ほど脆いものはない。真の実力者とは、人間の生命や安全を常に第一に考えられる人間のことを言うのではないだろうか。事故の多発が、利益や経済を優先させる経営者の現実を物語っている。
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あの福知山線を趣味の集まりのために、月に一度利用していました。
現場のカーブは前駅を出発してスピードが加速するあたりにあり、
カーブが鋭く、軋む音がしましたね。
ここには書けませんが、加えた要素があり、通る度に<脱線してこのマンションにぶつかるかも知れない>と感じて、並走する阪急線に乗り換えた記憶が今も鮮やかに突き刺さります。
「神は細部に宿る」と細やかな神経で生活してきた日本人なのに、先人達に学ばず、子孫達をないがしろにする、我々現在人はとても罪深いです。
あまりにも巨大資本に毒され、さらに加速していく様をただ黙す人達の何と多いことか。
蘭梅山はぜひ行って見たい場所です、画面からでも清々しい霊気を感じます。
最後の神に頼る前に、私達は何をすべきなんでしょうね。
(かねごん)
ブブタン様コメントを頂きありがとうございます。
危険は全く予見できなかったは、嘘だと思います。
刑事責任はなくても、彼らは十字架を背負っていかなければならないと思います。
そうじゃなければ亡くなられた方々の無念はあまりにも哀しすぎます。
投稿: ブブタン | 2013年9月28日 (土) 19時10分