9月の空のもと
毎年9月の中秋の名月の頃になると、空の青さがなぜかほろ苦い。年甲斐もなくセンチメンタルになる季節だ。
暑い夏が終わった安堵感の中で、急に身体の細胞が冷静さを取り戻すためだろうか、空をかすめ飛んで行く鳥達の姿や、虫達の羽音にさえ、悠久の時をひしひしと感じるこの頃だ。
僕には23歳になる長男と、18歳の青春ど真ん中の次男がいる。息子たちの姿に、自分の青春時代の姿を重ねることはあまりないけれど、ケータイやパソコンを自由に操り、いともたやすく情報を取捨選択して行く現代っ子特有の日常性を見るにつけ、やはり隔世の感がある。
将来の夢や恋愛の苦悩などがきっと彼らにも錯綜しているのだろうと思うのだが、変に飄々としている姿に、時代の流れを感じる。
長男は理系の学校を終わって工場勤務をしている。夜勤と日勤が不定期にやって来て大変なようだが、週末になると音楽パブでDJなどをやって、趣味に没頭しているようだ。顔も姿もあんまり僕には似ていないのだが、音楽好きの指向性だけはなぜか似たようだ。
夜勤が終わって朝帰ってくる息子と入れ違いに、僕は高校の仕事へと出かける。ひとつ屋根の下に住んでいても、なかなか話す機会もない日常だけれど、なんとか仕事を頑張っているようだ。
次男は地元の県立高校に通う3年生だ。高校の3年間は卓球で始まって卓球で終わったと言っても過言ではないだろう。
僕の目から見て、決して卓球の才能があるわけではないが、卓球にかける情熱と根性は素晴らしいものがある。その情熱をほんの少しでも勉学に向ければと思うわけだが、現実はなかなかうまく行かないのが世の中の常のようだ。
この時期になっても勉強は相変わらずのようだが、なんとか現在の志望を実現して欲しいと願う馬鹿親である。
自分の青春時代を振り返るとき、あまりにもほろ苦い経験や思い出がありすぎて、思わずギャーと叫びたくなる中年オヤジだけれど、こうやって女房や息子たちと過ごせる時間に感謝の日々である。
生活は上を見ればきりがないし、下を見てもきりがない。日常の雑用に埋もれ、残り少ない年月を過ごして行く人生なのだろうけれど、息子たちや女房に迷惑をかけない後半の人生でありたい。
9月の空を眺めていると、自分の歩んできた人生の様々な色がにじみ出てきて、僕は感情の流れの中に浸って行く。違う生き方があったのではないかと、ふと思う訳だけれど、こんな感じの生き方が僕の生き方なんだろうと思う。
先生と呼ばれる仕事にちょっと違和感を感じつつ、それでもって自由人であることにほんの少し誇りを持ち、僕はまたこの世界を泳いで行くのだろうと思う。
反抗的な思春期の少年が、そのまま初老のオヤジになってしまった僕だが、もう少し反抗的でいさせてもらおうかと思っているこの頃だ。
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