園側に約二億六千七百万円の損害賠償
東日本大震災の津波で送迎バスが流され、死亡した私立日和(ひより)幼稚園(宮城県石巻市、三月に休園)の園児五人のうち、四人の遺族が「安全配慮を怠った」として、園側に約二億六千七百万円の損害賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は十七日、園側に約一億七千七百万円の賠償を命じる判決を言い渡した。
園側が大津波の襲来を予見できたかどうかが大きな争点だったが、判決理由で斉木教朗(のりお)裁判長は「最大震度6弱の揺れが三分間も続いていたから、巨大な津波に襲われるかもしれないと容易に予想できた」と判断、予見可能性を認めた。
津波の犠牲者遺族が賠償を求めた訴訟での判決は初めてで、ほかの同種訴訟や今後の防災の在り方に影響しそうだ。
園側は控訴するかどうか今後検討する。
斉木裁判長は「園児は危険を予見する能力が未発達だから、園長らは自然災害を具体的に予見し園児を保護する注意義務があった」と指摘した。
その上で「千年に一度の巨大地震発生は予想できなくても、その後の津波は予見でき、園長は津波警報などの情報を積極的に収集する義務があったのに怠った」と判断。
「義務を果たしていれば、海側の低地帯にバスを発車させることなく、園の防災マニュアルに従って、高台の幼稚園に園児を待機させ、迎えに来た保護者に引き渡すことになり、五人の命が失われることもなかった」と結論づけて、園側の賠償責任を認めた。東京新聞
危機管理能力と、その行動が裁判の焦点だったように思うが、個人的には今回の裁判所の判断には、意外な感があった。
東京電力福島第一原発の事故を巡って起こされた告訴・告発が、全員不起訴処分になったことを考えれば、今回の幼稚園に対する賠償責任は納得がいかないという方も多いのではないだろうか。
現在審議中の類似の賠償訴訟がいくつかある。学校や幼稚園で犠牲になった子ども達の生命はかけがえのないものだ。しかし責任が学校や幼稚園にあったかどうかはケースバイケースで、自然災害の予知は困難を要したのではないだろうか。
津波の後に制御不能になった原子力発電の事故の処理と、津波に対応した人命救助の責任を同じ土俵で判断することは、ある種の矛盾や責任の所在の異質さがあるだろうと思う。
その異質さは、幼い生命だからお年寄りの生命だからと、区別するところにあるような気がする。
放射能が拡散した後、テレビは、高齢者は放射能の影響がすぐには現れないので食べても大丈夫的な発言を繰り返した。脳梗塞や心臓疾患で亡くなる方々の数が数倍に増えている。
僕はマスコミやテレビの大きな判断ミスだったと思っている。放射能関連の危機管理に対しては、まったくペナルティが課せられることがなく、津波の危機管理に対しての判断ミスに対して司法が厳しく判決を言い渡すことに、僕は違和感を感じている。
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