偶然を装った必然
震災後、日本を代表するシュタイナー教育の先生方と何度かお会いする機会を持つことが出来た。関東や九州から、不便なこんな岩手に、遠路はるばるお越し頂き、被災地の子どもたちのために、復興に尽力されてきた先生方には、本当に頭が下がる思いである。
家内が自宅に於いて、シュタイナー敎育を取り入れた風と虹の教室を始めていなければ、絶対出逢うことのない先生方である。シュタイナー敎育関連の著作を世に出されている先生方の、深い見識と揺るぎない敎育への情熱に、脱帽しっぱなしのかねごんである。
僕がやってきたような学習塾は、シュタイナー教育の思想とは真逆の教育であって、シュタイナー教育についてなにも語る資格などないのだけれど、ただ子どもという存在を、魂の領域にまで踏み込んで考察する姿勢ということについては、僕は僕なりに模索してきたつもりである。
魂という文字を、言葉や活字にした瞬間に、ある種の宗教や、今流行の啓発セミナーみたいなものを連想し、眉をしかめる方々がいるのも事実である。
子どもの非行や問題行動を、前世や親の魂の習癖まで考えて悪戦苦闘する塾教師など、おそらくこの世には存在しないんじゃないだろうか。いるとすれば、そのほとんどがお金目当ての詐欺師にほかならない。そういう意味では僕も間違いなく詐欺師である。ただしお金を取らない貧乏詐欺師ではあるが。
僕は生徒の前では、シモネタを連発するし、突然ギターを片手に変な歌を歌いだすし、静かだなと思えば時にコックリコックリしているしょうもないハゲオヤジだけれども、子どもたちの幸福のことは真剣に考えている。
人とはちょっと違う感性を持っている僕は(勝手に思っているだけれども)、人が見えている世界が全てではないということを強烈にアピールしたい。人はよく偶然という言葉を口にするけれど、偶然に思えるその日常の危うくそして繊細なバランスは、偶然を装った必然である。
あの世なんてないよと豪語する人間が、お盆にふるさとに帰り、ご先祖や親のお墓に神妙に頭を垂れるのはなぜだろう。神様なんていないという人間が、子どもが生まれよちよち歩きを卒業すると、七五三参りに出かけるのはなぜだろう。それは彼ら自身の魂が、魂の存在を信じているからではないだろうか。
このブログでかつても書いたが、僕は僕自身の前世の記憶がある。もちろん全部の記憶なんかではない。坊主をやっていた頃の記憶と、西洋で牧師をやっていた頃の記憶だ。そんな馬鹿なと思う人は、こんな妄想を書く人間のブログなど金輪際訪問しなければいい。それだけのことである。
矛盾するかもしれないけれど、ゆえに金儲けに走る坊主は大っ嫌いだ。不幸が出た家族から、高額のお布施を要求できるのは、彼ら自身があの世など信じていない証拠だ。ヤクザと変わらない。
昨日のブログで、中尊寺白山神社の薪能(たきぎのう)を観てきた話を書いたけれど、最後に演じられた『車僧』という能は圧巻だった。
牛が牽かない車を法力で自在に飛行させて修行と布教をする僧が、雪の嵯峨野で雪の景色を眺めていると、山伏が現れて、未だ輪廻の境地より解脱(げだつ)出来ずにいるのではないかと僧に問いかけてくる。
しかし実はその山伏は、愛宕山の天狗であり、僧を魔導に道に誘惑しようとする話の展開だ。
仏教でもキリスト教でも神道でも、最後は輪廻からの解脱を最終目的としている。死んでお釈迦様の元へ帰依する仏教。死んでキリストの元へ導かれ神の座に着くというキリスト教。ゆえに転生は認めない。転生を認めないので前世もない。神道に関しては、それに関する書物が存在していなので分からないが、神道系の新興宗教ではやはり似たような解脱の話があるようだ。
じゃ僕はどんなふうに考えているのかというと、やはり最後は宇宙を司る、神的なエネルギーに合一するんじゃないかと考えている。地球という星で経験し終えた僕らのエネルギーは、やがて違う星に向かい、いつの日か星めぐりを終えた僕らは、新たな宇宙の創造者となる。数十億単位の気の遠くなる話しである。
僕は昨夜の薪能を観ながら、そんな妄想を抱いていた。
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こんばんは、学び舎です。
つかぬことを伺いますが、金田先生は金売り吉次の御子孫なのではありませんか?
実は、この間、金田先生経由で村上先生からいただいた『菅江真澄日記』現代語訳を読んでいたら、「橘次信高」とその兄弟が金田姓を名乗って、代々平泉に仕えてきたという一節がありました。金成の金田八幡のことも出てきます。江戸時代の伝承とはいえ、単なる伝承で片付けてしまえないものがあると思います。
吉次の奥さんが都の貴族の娘だったように、金田先生の奥様も遠く関東から嫁いでこられた。これはきっとそのうち「砂金」が見つかりますよ。
(かねごん)
小林先生こんばんは。
苗字には金の字がついているのですが、お金には縁遠い暮らしです(笑い)。
がしかし、金田八幡神社との縁は浅からぬものを感じます。
ところで、今日頂いた小林先生のコメントが1555人目のコメントになります。
僕の記憶によりますと555番目のコメントも小林先生だったかと思います。
吉兆の数字だと思います。いいことがありますよ!
投稿: 学び舎主人 | 2013年8月15日 (木) 23時15分