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2013年8月29日 (木)

神様のベクトル

突然ですが、みなさん神様はいると思いますか。

僕はいると思うのですが、証拠を見せろといわれると残念ながら見せられません。

昨日中学3年生に漢文を指導していた時に、例の50にして天命を知るというやつが出てきたのですが、50をとうに過ぎた僕は苦笑いです。

子どもの頃から抱いてきた疑問は、未だに解決を見ることはなく、欲望の渦は留まることを知らず、煩悩のかたまりです。

先日も書きましたが、最近ずっと山岡荘八の『徳川家康』を読んでいます。20巻目が終わろうとしています。はまっています。

シリーズものにハマったのは、高校時代に読んだ五木寛之の『青春の門』以来じゃないでしょうか。

神社仏閣や教会の荘厳な佇まいは、神様に対する信仰の発露と言うよりは、時代時代に於ける権力者の財力の誇示であり、庶民に対する威圧であったろうかと思います。

神様は、巨大な伽藍も広大な敷地も必要などありません。人間の尺度で目に見えないものを考えてしまう愚かさがあります。

我々人間が聞こえる周波数などは、地球や宇宙に溢れている音源の、微々たるものです。ほんとうにわずかの音しかキャッチできません。ましてや視覚が捉える映像は、非常に限られたもので、可視光線の感知できる領域は、ほんの僅かなものです。

そのような人間の感知能力で、眼に見えないもの、聞こえない世界に対する不安や恐怖を緩和してくれるものが、人類が発明した神の概念ではないでしょうか。

かつてのヨーロッパの国々は、キリストという神を信仰させることで、植民地を拡大していきました。神の名のもとで行われてきた異端者の殺戮は、どれほどの数になるでしょうか。

神様の数ほど、殺戮の悲劇は存在しています。日本とてその例外ではありません。

神様がもし巨大な教会や伽藍を作ることを喜んでいるとしたら、それはおかしな話でしょう。小さな石ころひとつ、小さな芽吹きの雑草にも神様は宿っています。もちろん我々人間の中にも神は居るはずです。

心臓を毎日動かし、血液を送り出し続けているのは、僕らの意思でしょうか。空に輝く星々を見ている我々の感動は、どこからやってくるのでしょうか。

中東シリアで化学兵器が使われたとして、アメリカが軍事介入をしようとしています。今や兵器や殺戮の武器が、神様の代わりとなり、世界を征服しようとしています。

神様を信じて行われる爆弾テロ。神様の名のもとに行われる戦争。もはやそこには神も愛もあるわけがないのに、人々は盲信をやめません。なぜでしょうか。

幸福になりたいという欲望が、神様を担ぎあげた原因だと思います。人間の存在価値を、能力や富に置き換えてしまった我々の誤謬が、神とは全く反対のベクトルに向かってしまっているのではないでしょうか。

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