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2013年5月26日 (日)

教育の先にあるもの

子どもたちと接していつも思うことだけれども、若い命は素晴らしい原石だと思う。学ぶことで驚異的な能力を発揮していく。彼らの1日は、僕らの1年にも相当するかも知れない。

常に人類は、前人未到の領域を目指し続け、多くの不可能を可能にしてきた。人類を悩ませ続けてきた多くの疾病を退け、コンピューターのテクノロジーは人間の解析能力を凌駕した。

医学や各種テクノロジーの驚異的な進歩が、人間の寿命を伸ばし、生活を豊かにしてきたが、それと付随するかのように多くの社会病理が生まれてきたことも否定出来ない。

70年前喜劇王チャップリンは、回り続ける車軸に挟まれる自らの姿で、文明社会を揶揄したが、現代社会はパソコンのボタンひとつで処理されて行く無機質な文明になった。人間の頭脳が、まるでパソコンに集約されてしまったような錯覚を覚える。

パソコン1台と卓越したアイディアがあれば、数億円のお金を稼ぐことが可能になった社会。ものを作る情熱や、作物を育てる情熱が、若者たちから剥奪され、全てが金銭的な尺度で評価される社会が構築されてきた。

戦後の教育の目的は、言ってみれば、貧困からの脱却だった。農村では食べていけない多くの少年、少女達が集団就職で都会に流失して行く時代、教育の軸は、忍耐と努力を培うことだった気がする。

一方今の教育の軸となんるものはなんだろうかと考えてみると、残念ながら薄ぼんやりとして、僕には見えてこない。

学校教育の最大のネックは、差別化によるやる気の喪失だ。特に高校や大学は、完全に偏差値やテスト能力で振り分けられているが故に、生徒どころか、教員までもが情熱を喪失している。

テスト解答能力が低いのであって、決して精神性が低いのではない。そこのところを勘違いしてしまうと、育つべき人材が育たなくなってしまう。

情報処理能力が優先される現代に於いて、理系分野への人材流出が増大し、文系人間の活躍する分野が狭くなってしまった。僕は文系力が衰退する国家は、危険だと思っている。そしてその兆候はすでに日本に現れている。政治家や思想家のレベルを見れば、一目瞭然だろう。

国立大学入試に於ける共通1次テスト、そしてセンター試験は、明らかに日本の学生の質を落としてしまった。国立大学も私立大学同様、理系、文系教科の試験にすべきである。

専門分野のエキスパートが育たない日本の大学の脆弱さは、どうでもいいような雑学の4択問題を施している受験制度に問題があると僕は思っている。例えば3教科受験にすることで、国立大学と私立大学の垣根が取り払われ、本当の意味での平等の教育のシステムが構築されていくのではないだろうか。

そして逞しい理系人間、文系人間が育って行くはずだ。

教育の先にあるものは、人間学である。人間の科学的な解析は進歩したが、人間そのものを読み取る哲学的、精神的な学問はあまりにもなおざりにされてきてしまったように感じる。そこにエセ宗教やエセ社会学が流れ込み、真の人間学が喪失されてきてしまったように思う。

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