助っ人という呼称は差別用語か
ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の第3回大会で日本代表は準決勝で敗れ、3連覇を逃した。だが、「WBC敗北は必然の結果だった」と語るのは、落合信彦氏。一体どこに問題があったのか。
* * *
日本の野球界の一番の問題点はその閉鎖性にある。日本社会の象徴と言っていいほどだ。世界最高峰のリーグであるMLBと比較すると、そのことがよくわかる。
MLBでは外国人の起用に事実上制限がない。1947年にジャッキー・ロビンソンという黒人初のメジャーリーガーが誕生して以来、MLBは才能を持ち、努力を惜しまない選手に対して常に門戸を開いてきた。
チャンスは平等に与えられ、メジャーリーガーを夢見る世界中の若者が競争に身を投じた。その姿勢がリーグにダイナミズムをもたらし、今ではメジャーリーガーの約3割はアメリカ人ではない。そして、そのことに文句を言うアメリカ人に私は会ったことがない。
一方の日本はどうだろうか。一軍登録は4人までという外国人枠の規制を設け、最初から門を半分閉じている。
私が最もおかしいと感じるのは、外国人選手に対する「助っ人」という呼称だ。瑣末な言葉狩りには熱心な大マスコミが、なぜこのような“差別表現”を堂々と使うのか、私は理解に苦しむ。
アメリカに渡った野茂英雄やイチローは「助っ人」などとは決して呼ばれなかった。世界最高峰のリーグに相応しい実力を持つ一人の野球選手として、メディアからも観客からもリスペクトされていたからだ。
多様性なきプロ野球界の現状は、日本社会の持つ島国根性の象徴だ。規制によって自国を守ろうとしてもうまくいくわけがない。ただ単に世界と競争する力がどんどん失われていくだけだ。
国内リーグ所属の選手だけで臨んだWBCの戦いぶりが証明している。野球に限った話ではない。規制で既得権を守ろうとしても、いずれ問題はより深刻なものとなって顕在化することになる。
本当に日本の野球界のことを考えるならば、外国人枠の規制などもっと緩和して、アメリカの有望な高校生や大学生を日本球界にスカウトしてくるくらいの発想を持たなければならない。
外国人を「助っ人」と呼ぶ習わしが差別用語だというこの記事に、僕は違和感を覚える。日本のプロ野球の体質を見るにつけ、日本のプロスポーツ界はまだまだ後進国だ。
アメリカや他の外国のプロスポーツ選手の待遇は、日本と比べれば数段上だ。従って外国人プレーヤーを助っ人と呼ぶのは、外国人対する差別と言うよりは、日本人の劣等意識の現れのような気がする。
中学校や高校が部活に熱心なのは、個々人のスポーツの能力の向上と言うよりは、学校の宣伝や指導者の利己的な心情によるところが多い。プロを目指す選手に対して言われる言葉、「君はプロでは食えない」というこの常套句が全てを物語っている。
つまり日本でプロ選手になるということは、文学で言えば芥川賞や直木賞をとるようなもので、稀人なのである。その稀人に対してさえ、経済的には厳しい世界だ。
助っ人の外国人がいなければ、勝てないチームなら、落合氏が話すように、相撲界のように外国人枠を取り払って、野球もワールドにすればいい。
叶わぬ夢を追いかけて挫折するよりは、堅実なサラリーマンを目指せばいいだろうという世間の声が多いわけだが、日本社会では、大学を出て普通のサラリーマンになることもなかなか容易ではない。
プロ野球選手になりたい、プロサッカー選手になりたいという夢を語ることが、現実逃避の夢物語であることが多い子どもたちを見ていると、日本のスポーツ育成制度の改善が必要だろうと思う。
とにかくスポーツにはお金が掛かり過ぎる。助っ人外国人よりも助っ人支援金がスポーツには欲しい。
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