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2013年4月19日 (金)

まだ間に合うかも知れない

東日本大震災で、故郷を離れた多くの方々がいる。自主避難をされた方々には、ほとんど金銭的な支援が行われいないのが現状だ。

放射能の値が高いことがわかっていても、金銭的な理由や、仕事上の都合で留まざるを得ない方々が多い。

震災が風化して行く実状を前に、弱者の存在が忘却されて行く。

僕は震災以降、人間の欲望と諦観ということについて、何度となく考えさせられてきた。

平和であるとか幸福であることの絶対条件は、希望の所有だと僕は思っている。明日に希望を持つことが出来れば、僕たちは生きていける。

膨らんだ水仙の花が、明日咲くかも知れないという希望。予約していた本が、明日図書館に届く希望。ささやかな希望の連続が、生きていく糧を創造する。

さざなみのように僕らの感情や思考は放射され、その蓄積が社会や文明を動かしていく。

この文明を築いてきたのは間違いなく我々人間だ。我々の感情や思考が欲望に根ざしたものならば、良くも悪くもこの文明は、欲望の表出である。

原子力発電所も、核を搭載した弾道ミサイルも、毎日捨てられる数億人分の食料も、我々が作り出した文明の産物だ。

物欲と性欲、食欲を遮断して僕らは生きてはいけない。欲望や快楽の追求も生きる希望なのだ。

しかしエスカレートし続ける欲望に、歯止めをかける理性がなければ、人類は終焉を迎える。

崩壊した原発から放出され続ける数万ベクレルの放射能を収束させるには、気の遠くなるような時間と労力とお金が必要とされ続ける。どれだけの犠牲が強いられて行くだろう。

そのような現実を前にしても、原子力を稼働させ続けようとする人間の欲望は、お金という経済の麻薬に感情が支配されて、止められないのだ。

空が金で買えるだろうか。雨や風を独り占め出来るだろうか。

この大地を汚して平気だとしたら、僕らには、この星に住む資格はない。もっと大きな哀しみが訪れるかも知れない。

まだ間に合うかも知れないという希望が、僕の命を鼓舞させる。

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