女房の言葉にドキリ
「あなたはお金持ちが嫌いなんでしょう」
いつものごとく朝コーヒーを入れて飲んでいると、女房に言われた。僕の人格や人間性を全て見透かされたような彼女の言葉にドキリとしたものの、僕なりの言い分というものもある。
誰かがお金持ちになっているということは、誰かが貧乏になっているということだ。一つの商売を見てもわかることだ。
町に団子屋さんがあった。小さいながらも何とか家族が食べていける暮らしをしていた。ところが近くに違う団子屋さんが出来た。安くはないが、店の雰囲気がいいのか、売り子のお姉さんが人気なのか、その新しい店は大繁盛である。
前からあった団子屋さんは、団子の粉を仕入れるお金もなくなり、店を閉じてしまった。ちょっと暗い脚色の話を書いてしまったが、世の中にはよくある図式だ。これが資本主義社会の競走原理である。
なかなかお金というものは、共有することが難しい。水が流れるごとく、高きから低きへと流れていく。
小さい頃からずっと我が家は貧乏だった。正直いつかお金持ちになりたいと、子どもながらに思ったものだ。しかしである。いつの頃からか、お金持ちであるよりも、自由人でありたいという想いのほうが強くなった。そしてそのまま生きてきてしまった。
僕の人生の中で、タイムカードを押す生活というのは、3年しかなかった。大学を出てすぐの1年半と、そして塾を始めてからバイトに勤めた園芸屋さんでの1年半だ。
中途半端なお金を頂くなら、ボランテイアのほうが気持ちよくやれる、そんな性分なものだから、おのずとお金が貯まらない。きっとしっかりお金を稼ぐ人間が僕の生活を見たなら、呆れるだろうと思う。
例えばこのブロブを毎日打ち込む深夜の時間に、添削とか翻訳とか、なにかのバイトでもすれば、それなりの小遣いが稼げるだろうと思う。しかし、こんな拙い僕の個人的なブログを楽しみに読んでいてくれる人がいると思うと、小遣い稼ぎなどどうでもいい。
僕の貧乏暮らしはまだまだ続きそうだ。
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