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2013年4月18日 (木)

「道徳の教科化」について

 政府が推進する「道徳の教科化」について、文部科学省の検討案が17日、判明した。来年度は、現在使われている副教材を同省が全面改定し「教材」として利用。文科相の諮問機関「中央教育審議会」での議論を経て、15年度以降は、民間が参入した検定教科書を作成、学校で使用できるようにする方針だ。特定の教員免許は創設せず、研修を受けた上でどの教員も教えられるようにする。検討案は今後、有識者による懇談会で審議される。

 下村博文・文科相が毎日新聞の取材に明らかにした。

 現在、道徳は学習指導要領の中で「総合的な学習の時間」などと同じ「教科外活動」に位置づけられている。小中学校で週に1時間設けられているが、算数など教科の補習時間に充てられることもあり、教える時間が確保されていない点が指摘されている。

 07年の第1次安倍内閣でも、道徳の教科化が打ち出されたが、中教審の中では慎重な意見が多く、見送られた経緯がある。

 下村文科相によると、新教科「道徳」は現在と同じ週1時間とし、当面は文科省が作成した副教材「心のノート」を全面改定した教材を用いることとするが、地元教委などが作成した副読本の追加利用も認める。2年目以降について下村文科相は「他教科の教科書と同じように民間が参入する検定教科書も考えられる」と述べ、教科書会社に「道徳の教科書」の作成を促した。

 下村文科相は「特定の価値を押しつけるのではなく、学習指導要領のコンセプトに合った偉人伝などを入れて、親も読みたくなるような教材を作り、家庭でも学べる環境を作りたい」とした。

 また、「道徳の教員養成をやるとすると、大学のカリキュラムも必要となり、10年かかる」と道徳の教員免許創設には否定的な見解を示し「(道徳の)免許がなくても、研修を受ければ教えられるようにしたい」と話した。【福田隆】(毎日新聞)

戦後、道徳教育については、多くの議論がなされてきた。国家や体制に従順な子どもを育てる洗脳敎育だと批判する声がある一方、真摯に道徳教育を模索する教育者の苦悩があったことも事実だ。

昭和32年に発行された新言海をひもとくと、道徳とは『人の世に処するに堅持すべき正しい意識行為』と記されている。正しい意識行為という表現に、非常に新鮮な響を感じる。

戦後、神道や仏教思想、そしてキリスト教的な思想を極力排除してきた公の学校敎育に於いて、道徳という敎育の本筋は、極めて曖昧で抽象的なものだ。人を思いやる心、助け合う心というお決まりのフレーズは、激しい競争社会が繰り広げられる日本社会に於いて、ある種の矛盾をはらみ、その矛盾の生み出す負の感情を、まるで取り繕うかのように、道徳という言葉が敎育現場にペタペタ張り付けられてきた。

仮に、競争社会から弾かれないような大人に育てることが敎育の目標であるならば、それを達成されるための精神鍛錬は道徳とは言い難い。

根性や強靭な精神をつくり上げることを敎育の主眼に置くことは時代錯誤で、いたわりや心の絆を大切にする敎育を目指すと言うのならば、競走原理を中心としたこの社会は、敎育の延長線上にあってはならない。

真の道徳敎育は、命の平等さを子どもたちが共有して初めて、正しい意識行為が育まれて行くのではないだろうか。

今までの道徳敎育は、学校という競争社会の中で、勉強が出来ない児童や生徒にやる気を与えることが目的の、言わば説教敎育だった気がする。

敎育の現場に立つ教師は、何らかの宗教を学ぶ必要はないだろうけれど、それぞれの信仰心はあっていいのではないだろうか。そうでなければ、道徳敎育は、いつまでも絵に描いた餅のままだ。

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コメント

道徳教育をしっかりとやっていくことには大賛成なのですが、この動きは阿倍総理の数年来の政策によるところのモノであると同時に、大津市中学生の自殺などで社会問題としてイジメが顕在化してきたことへの緊急対策の一環のはず。でも明日カツアゲされるために持って行くお金がないとか明日もまた殴打のエジキになるとかと悩み苦しんでいる子供たちの救いにはなるでしょうか?密告すれば制裁が待っていて(無記名アンケートだって「魔女狩り」される)子供たちからイジメが教員に報告されることはほとんどないのですから、大人がイジメを見つけて体を張って制していくしかなく、イジメ緊急対策は警官OBなどの「実力集団」を学校に配置することだと思います。

(かねごん)
Mr.Peki-chan様コメントを頂きありがとうございます。
道徳敎育は必要かと言うと、必要ではあるだろうけれど、効果のない授業になることは当然あるだろうと思います。
人間の力量の問題ですね。それは、話す方も、聞く方も両方の問題ですが・・・・。
実力集団が学校に入る状況は、親も地域もギブアップした時でしょうね。敎育を学校に任せっきりででもだめで、家庭に期待しても敎育は成り立たなくなっています。
教員の質の低下もあるでしょう。家庭の低下も間違いなくあるでしょうね。

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