最近のトラックバック

« 幸運の花は努力の継続で開花する | トップページ | 指向性の違いであって、能力の違いではない »

2013年3月29日 (金)

原子力問題の閉鎖性と同根の病巣である

地球上に命を持つ70億の人々。一体どれだけの人たちが幸せを感じているだろうか。いや言葉を変えよう。どれだけの人が平凡な日常を過ごしているだろうか。

戦火の中を逃げているいる人々。餓えと戦っている人々。病気に苦しんでいる人たち。考えてみれば、一日3度の食事を不自由なく取れる人が、この星にどれほどいるのだろうか。

平凡に生きるということは、ひょっとすると奇跡に近いものじゃないだろうか。しかしその奇跡に多くの人たちは気づかない。

僕らは芸能人やプロスポーツ選手のように、スポットライトを浴びたり、多くの人たちから注目されたりすることはない。毎日地道に生きているのが僕たちだ。

東日本大震災が起きて、多くの方が亡くなった。今も多くの人たちが、大変な避難生活をしている。

東京電力福島第一原子力発電所の放射能の値は天文学的な値を示し、テレビも政府も何も言わなくなったが、崩壊した原子力発電所からは毎日大量の放射能が空気中に放出され続けている。

僕ら日本人は、実は平凡な暮らしをしているように見えるが、大変な状況下にあるのだ。

10年前の春、僕は人生の谷間に落ち込んでいた。今思うと、中年期に突入し、俗に言う更年期障害になったのかも知れないが、軽度の鬱状態に陥っていた。やる気が出ないのである。そういう時は、悪い状況が重なるもので、塾に生徒もやって来ない。収入も入らず、お米はあってもおかずを買うお金にも事欠く状況だった。

その時、僕を救ってくれたのは山の幸だった。ありとあらゆる山菜をその春には採った。ふきのとう・コシアブラ・タラの芽・たけのこ、天ぷらにしたり、酢味噌和えにしたり、まるで縄文時代の自給自足のような暮らしだった。

山菜採りの山歩きのおかげだろうか。新緑の葉が色濃くなる頃、僕の鬱状態も回復していった。

しかし現在、一関ではそのふきのとうも、コシアブラもタラの芽も、放射能で全部汚染されて、一切食べることが出来なくなった。山里に住みながら、山の幸を味わえなくなったしまった。僕らの平凡な日常が消滅してしまった。

津波で家が流されたわけじゃない。家族を失ったわけじゃない。仕事がなくなったわけじゃない。しかし、ふと襲ってくる虚無感は何だろう。

今回の震災で、財力や権力が、人間の命や安全よりも優先する国だということをいやというほど目の当たりにした僕は、日本で行われている教育も、福祉も、医療も、結局は企業や政府のための維持装置であり、個々の幸福をベースにした理念ではなく、単純な弱肉強食の階級社会の産物だということに、ようやく気づいたのである。

近年増加した不登校や引きこもり、ニートの社会現象は、そういったヒエラルキーに対する弱者の自己防衛であり、良識や常識という社会の偽善を押し付けてくる正義という仮面をかぶった利己主義者たちに対する声なき反抗なのだと思う。

そのことを異常だと決め付ける大人の思考こそ、平凡を崩壊させる非日常性であり、原子力問題の閉鎖性と同根の病巣である。

にほんブログ村 教育ブログ 塾・予備校教育へ教育ブログランキング参加中。

« 幸運の花は努力の継続で開花する | トップページ | 指向性の違いであって、能力の違いではない »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/402165/51011415

この記事へのトラックバック一覧です: 原子力問題の閉鎖性と同根の病巣である:

« 幸運の花は努力の継続で開花する | トップページ | 指向性の違いであって、能力の違いではない »