僕らではなく、僕であり、私たちはではなく私である
逃げたい時がある。
いつもいつも人間はアクティブには生きてはいけない。その逆にいつも怖気づいてもいられない。
寛容さといらだちの間で、揺れ動く。
批判することは簡単だ。世の中の風評を適当に反芻すればいいのだから。しかしそれでも尚、言動には責任が伴う。
人にものを教えるということは、その人の人生感に影響を及ぼすことを意味する。どんな言葉もないがしろにはできない。
だから意見をいう時は、常に一人称で語らなければならない。僕らではなく、僕であり、私たちはではなく私である。
僕が見た風景を伝えるのは僕だ。その感性や質量感を伝えた瞬間に、その風景は相手のものとなる。
そこで生まれるドラマが、それぞれの個性を築いていく。
だから言葉は侮れない。
自分の今が出てしまう。
逃げたいけれど沈黙も許されない。もうマイクを握りしめているのだから、自分を語らなければならない。僕達ではなく、一人称で。
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