パラドックス的な状況
誰にでも煩悩はある。僕に限って言えば煩悩の塊だ。目立ちたがりや。負けず嫌い。そして欲望の際限がない。困ったものだ。
そして僕はそのことを隠そうとはしない。いつも本音をさらけ出してきた。ゆえに友達は少ないが、人間関係は濃密だ。塾の仕事にもそんな僕の性格は反映されている。
一生懸命指導をして、合格させてやれなかった時の挫折感は言葉にしがたいものがある。自分という人間を信じる力が減退する。受験指導をして生活をさせてもらっている。それに報いることが出来ない時の自分は、苦しい。
合格させて当たり前の仕事を生業としているのに、僕は何をしているんだろう。塾生の無念さがひしひしと僕の内蔵に忍び寄る。
30年間塾教師をやってきたが、この感情に慣れることはない。合格させることが出来なかったその現実に、僕は僕自身に腹が立つ。
僕は塾教師だ。世間では僕らの仕事をどう評価しているの知らないが、ヤクザな商売である。先生などと呼ばれるが、先生などではない。他人のふんどしで相撲をとるという表現があるが、僕らは学校のふんどしで相撲をとっているようなものだ。
学校の授業のような指導をしたがる塾教師をたまに見かけるが、きっと学校の先生になりたかったのだろうと思う。塾は学校じゃない。文科省の管轄でもない。塾は誰でも出来る商売だ。資格もキャリアも要らない。大学を出ている必要もない。教えるスペースがあって、生徒が来てくれれば成り立つ商売だ。
だから難しい。
合格させればいいのか。そんな商売だったら何も悩まない。
学校の先生が気づかないところ、学校の先生が踏見込めないところ、学校の先生がやりたくないところ、そういった日陰のような道を歩む図太さがあって塾は、塾として存続していく。
だから先生先生と呼ばれて、先生面しているようでは塾屋はダメだ。学校の教師より俺は出来るなどと思っている塾教師も、長続きはしない。
学校の授業が分からない生徒が多いのは、学校の先生の教え方が悪いのでは無くて、学校のシステムが限界に来ているのだ。僕はそう思っている。これほど学力格差が激しくなっている時代に、能力レベルを設定しない一斉授業はもう無理だろう。
それからハングリー精神の問題も多分にある。生徒が受験に受かっても受からなくても給料に影響が出るわけじゃない。私立学校のように生徒集めの営業をするわけでもいない。そういう意味ではモチベーションの持って行き方が、今の公立の先生は難しい。
出来ない生徒は、先生が無視すると言うが、文科省の指導基準に合わせて進もうとすれば、そうなってしまう。
パラドックス的な状況が生まれている。かつて塾は詰め込み主義だのエリート教育だの、さんざん言われ続けてきたが、今は学校教育の方がそうなってしまっている。
生徒の受験の失敗は、学校のせいではなく、塾のせいだと思っている塾教師がいるが、心情は分かるが、それは思い上がりだ。学校の裁量と子どもの技量のバランスを調整出来なかった責任はあるだろうが、塾の指導に責任があるわけではない。塾の勉強をやっていれば間違いない、という想念に責任がある。
失敗は成功のもとと言うが、それは成功したものが初めて言える言葉だ。今センターが終わり、中学受験が終わり、残念な気持ちの生徒がいるだろう。僕の塾も例外ではない。
誰にでも道はある。その道はその人の強烈な想いで出来ていく。気持ち、一瞬一瞬の気持ちが大切だ。大丈夫、歩めば道を進んでいける。誰もが前人未到の道を持っている。僕は伴走できないかも知れないが、ずっと見守ることは出来る。その思いは誰にも負けない。
頑張れ!
« 平泉町の柳之御所遺跡で発見されたカエル | トップページ | 正義とはなにか »
「誰もが前人未到の道を持っている。」
そう冷静に思えるのは30年の塾のキャリアがあるからでしょうか。
17・8年の僕はまだまだですね。
「一人一人が自分の人生の主人公なんだ」と、とよ爺さんも叫んでいました。
そういった人たちと関わっていくことのおこがましさみたいなものを持たなければsolidな関係は築けないなと感じました。
ありがとうございます。
(かねごん)
永田先生コメントを有難うございます。
実は昨日はとことん落ち込んでいました。自分の不甲斐なさからです。
何度も何度も、自分の仕事を考えました。この記事、自分自身に対する叱咤激励なんです。
投稿: 永田 | 2013年1月28日 (月) 14時18分