一歩
教育の根っこの部分にあるものは、幸福な人生を歩む道筋を教えることだと僕は信じている。
学校や塾は、求める方向性が違うかも知れないが、受験のための学問を教えるのではなく、努力する汗と継続性が、幸福の一歩になることを実感させる場でなくてはならないと思っている。
いい大学に入るため、いい会社に入るために勉強するという動機づけが、多くの挫折者を生み出してしまうのは当たり前だ。なぜならそれらの動機づけは、人生の本来の目標ではないからだ。ストレートに言わせてもらえば、魂の目標ではないからだ。
いい大学やいい会社に入ることで幸福がつかめると言うのなら、いい大学やいい会社に入らないものは、幸福になれないという図式になるだろうが、今時そんなことを信じている子どもなどいない。大人が勝手に抱いている幻想だ。
仮にその幻想にすがりついたまま人生を終わればいいのだろうけれど、幻想は幻想ゆえに、いつしかそのメッキは剥がれ、現実が露出する。
実力がなければ幸福になれないというのも幻想だ。親の財産や親の社会的地位を利息にして生きている若者たちに、実力などあるはずがない。
幸福であるためには運が必要だと、ことある毎に僕は言い続けてきた。そしてその幸運は感謝がなければ訪れない。いや言葉を変えよう。続かない。
ここで重要なのは、感謝をすることにも叡智が必要だということだ。自分の存在が単なる偶然にもたらせられたんじゃないという気づき。自分が生かされている存在理由についての哲学的な考察がなければ、心から感謝の心は湧いてこない。だから教育は必要なのである。
5教科以外の教科なんてどうでもいいと思っている方が多いが、芸術性を養い、運動能力を高めることも、己を知る上でとても大きな学びだと思う。そして本を読む力、人の話を聞く力、思考する力が幸福な人生を歩む原動力となる。
山登りや沢登を経験した人は分かると思うが、ルートを外れた獣道の間から、息を呑むような美しい光景が飛び込んで来ることがある。それとても、方位や地形を読み取る力があっての発見である。
生きる力を学ぶことを忘れてはならない。そして教えることを忘れてはならないと切に思っている。
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かねごんさん、こんにちは。
「教育の根っこの部分にあるものは、幸福な人生を歩む道筋を教えることだと僕は信じている。」そうですね、そうあって欲しいです。幸福をどのように感じるか個々に差があると思いますが、お金や地位名誉が幸福であっては、生きづらい世の中になります。お金や地位は、あの世には持っていけません。所詮は、絵に書いた餅になるものよりも魂や心の満足をあの世には持って行きたいです。お金や名誉があっても、他人にはわからない健康や家族の悩みなどあったり、孤独があったりではないでしょうか。皆が羨むうまくいっているような人は他人にはわからない陰の努力や犠牲の上での結果なのではないでしょうか。だから人と自分を比べて幸せを感じる必要はないのだと思います。感謝の心ほど、心を満たしてくれるものはないと思います。
(かねごん)
たんた様心が凛とするコメントを頂きありがとうございます。
表面的な価値観にとらわれ過ぎている僕らは、本当に考えなければならないと思います。
真に生きるとは何かを、子どもたちと必死に模索して行こうと思っています。
投稿: たんた | 2012年11月22日 (木) 14時05分