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2012年9月20日 (木)

「棄民」

友人の学び舎・小林先生のブログを引用させて頂いた。

ちょっと考えてみれば、私たちがとんでもない状況に置かれていることに気がつくはずである。チェルノブイリの事故はたった1基の原子炉が起こした事故だった。福島は3基がメルトダウンを起こし、運転停止中の1基が使用済核燃料プールという爆弾を抱えている。これ以上悪い状況があるのだろうか。

しかもこの先、真の収束まで何十年かかるか分からないのに、汚染された土地に人々を住まわせ続けようとする。除染どうのこうのの問題ではない。福島第一の現状は決して安定したものではないのに、その危険な土地に近い所へ人々をとどめておこうとするのは何故なのだろう。

東日本大震災以来、ずっと頭の片隅から消えない言葉がある。「棄民」。福島の人々も東日本沿岸の津波被害を受けた人々も、みな見捨てられていくのではないか。

放射性物質が広く降下し、放射性セシウム137によって汚染された広大な面積を除染するのは現実的に不可能だろう。特に山林に降下した放射性物質を取り除くのは無理だろう。低線量被曝が避けられない状況にあるのだが、そのことについて公的な機関からは何もアナウンスがなされない。低線量であれば健康に害が出てこないという見方を公式見解にしているからなのか。

いずれにしても、非日常も日常化してしまえば、何も感じなくなる。何も考えなくなる。福島の原発事故はまだ収束などしていないのだし、津波の被害を受けた東日本沿岸の復興はまだまだこれからなのだということを、改めて意識しなければならない。

僕も小林先生も生粋の東北人だ。どこを切っても東北人の血が流れてくる。福島第一原発が崩壊してから、僕はずっと考えていた。東北人は見捨てられたのではないだろうかと。

チェルノブイリの惨事を読めば読むほど、東北はもっと深刻なはずなのに、だれも政府の要人達は、そのことに言及しない。テレビも新聞も、小林先生が書いているように、まるで原発の事故が収束したかのように沈黙をしている。

これから一体どんな未来が東北に待っているのだろうか。

『気にしてもしょうがないがら』 よく聞かれる言葉だ。

出荷される野菜や果物以外の食材は、線量を計ることも食卓に上がっている。小さな子どもたちを守らなければならない大人たちが、麻痺してきている。

僕らは「棄民」であっても、凛として生きて行かなければならない。この東北で。

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コメント

おはようございます、学び舎です。記事を紹介していただき、ありがとうございます。

この間、内田樹さんのブログ「内田樹の研究室」の記事を読んでいるときに、戊辰戦争以後の東北がどのような経緯で発展から取り残されるようになったのか、その結果原子力発電所を受け入れざるを得ないような地域がなぜ多くできてしまったのかについての指摘を目にしました。

興味深い記事だったので、そのうち紹介記事を書こうかと思っているのですが、東北地方特に福島、青森に原発が多いのは歴史的経緯があるようです。

(かねごん)
小林先生おはようございます。
僕は今回の政府の対応で、逆に東北が愛おしくなりました。
先日遠野物語を読み返しましたが、岩手や東北の地は、日本人の感性を作った原風景とでも言える魂の風景画をもっています。
この東北がダメになれば、日本も崩壊するでしょうね。僕はそんな気がします。

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