慟哭
東日本大震災の津波で児童・教職員84人が死亡、行方不明となった宮城県石巻市立大川小学校の当時の校長が、震災直後の市教育委員会の聞き取りに対し「(保護者らへの)引き渡し中に津波」などと証言していたことが16日、分かった。校庭に津波が襲うまで学校側が児童らを校庭にとどめ、避難させなかった可能性が浮上した。
真相解明を求める遺族有志が市教委に情報公開を請求、同日開いた記者会見で明らかにした。市教委は避難の開始時刻を二転三転させており、今年3月に開かれた保護者説明会では「津波到達1分前に避難を開始した」と説明していた。
聞き取り調査は昨年3月16日に実施されたもの。遺族有志によると、開示資料では今年3月に退職した当時の校長が「校庭避難 引き渡し中に津波」「(これまで)津波が来なかったので油断」「屋上がないので」などと証言。当時、前校長は所用で学校にいなかったが、遺族らは「唯一生き残った教諭から被災状況について連絡を受けていた事実がある」としている。
遺族有志は同日、境直彦教育長に詳しい説明を求める質問状を手渡し、境教育長は報道陣に「内容を検討し遺族の気持ちに応えたい」と述べた。
有志の一人で、6年生だった次女、みずほさん=当時(12)=を亡くした佐藤敏郎さん(48)は「市教委は説明を翻し続け、今回も新証言が発覚した。子供の命を真ん中に置いて、真摯に向き合ってほしい」と訴えた。(産経新聞)
「こんな津波が来るとは思わなかった」 大川小学校の悲劇を象徴する言葉だ。
愛する子どもを失った家族・親御さんの想いをないがしろにしているのは、避難させることができなかったことではなくて、避難させることができなかった学校側、そして教育委員会の責任逃れの態度だ。
あれは予測できなかったことで仕方がないという弁解が、亡くなった子どもたちの命の尊厳を軽んじている。
かなり前から三陸沖の大地震が来ることが言われ続けてきた。僕は石巻の町を車で走るときも、気仙地区の海岸線を走るときも、地震が来たら何処の道を登って津波に備えるかを常に意識して海岸通りを走ってきた。
それを思えば、海岸沿いに住む方々はもっと津波に対する危機意識を持っているものと思っていた。しかし残念ながらそうではなかった。
大きな地震が来るたびに、テレビでは津波警報が出されてきた。もちろん避難はしてきたのだろうが、実際は50センチや1メートル弱の津波ばかり。そのことが、津波に対する恐怖を薄らさせてしまった。残念でならない。
亡くなられた児童の皆さん、そして先生方のご冥福をお祈り申しあげるとともに、学校関係者の真摯な対応を切に願いたい。
「屋上がなかったので避難させられなかった」では、天国に逝ってしまった子どもたちに申し訳がたたない。
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