学力格差と言うが・・・
学力格差がどこでも論議されている。出来る生徒とそうじゃない生徒の格差が激しいと多くの教師が嘆く。
この格差が近年になって増加したような論調が多いが、実は僕らが中学生の頃も学力格差はあったと思う。いやあったに違いない。
昔は学力がなかったり、勉強が好きじゃなければ、そのままに扱われ、高校も今のような普通科や総合学科の教科ではなく、就職のための訓練校的な高校に行く生徒が多かった。
つまり出来ない生徒が行く場所が用意されていた。高度経済成長を突き進む当時の日本は、学歴が無くても、机上の学問ができなくても、社会で生きて行く糧は多く用意されていた。
大学進学率がうなぎのぼりに上がり、表現は悪いが、出来ない生徒も大学を目指す時代になった。近年はAO入試なるものが大学の門戸を広げ、今や大学に行くことが、平均的な国になった。
つまり勉強が本当は好きじゃない子が、普通高校を目指すことが多くなり、勉強が好きでない子が、塾に通い、そして進学のためのクラスを目指すケースが増えた。
おのずと、格差が広がった。
適材適所という能力分けが、教育現場で実施されることがけしからんという声も多い。しかし、附属中学のような進学学校を作る発想があるなら、徹底した職業訓練的な高校があってしかるべきである。
アルファベットが書けない高校生。分数の足し算が出来ない高校生。彼ら彼女らに分詞構文やコサイン・タンジェントを教える、教わるジレンマを教師や生徒が共有し苦悩するよりも、伝統工芸や土木作業などの専門分野の育成を目指す若者のための機構を国が作るべきではないだろうか。
能力格差はあるのが当然である。しかしいろんな素質や指向性を持つことにおいては、人間は平等に神様が造ってくれていると思っている。
暗記や言語能力が劣っていても、芸術的な才能があったりするわけで、既成の学問の中で人間を差別して、学力格差云々を言っている日本の教育の器が小さいのである。
「数学は消費税の計算ができるくらいの能力があれば、十分社会で生きていける。」「英語なんていらない」そう断言できる人間は強い。そうなるためには、生きて行く自信がなければならない。
その自信は、ゆらぎのない努力からやってくる。
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