光と影
大学時代の友人が30年前にインドに旅行に行ってきて、インドでの体験を語ってくれた時のことを、数年前の秋葉原の事件や、今回の京都祇園の事件などを見ていて思い出していた。
幸福を感じている者と、幸福感を感じられない者の強烈な光と影のコントラストが、現代の日本社会であまりにも顕著になりすぎた。
カースト制度が色濃く残っていたかつてのインド、共産圏の国々の人々の諦観的人生が、決して良いわけではないが、不平等という社会構成を念頭に於いた生き方には、少なくても精神を錯乱させる程の自由や幸福感の喪失はなかったような気がする。
今の日本はどうだろうか。大学を終え、無難な会社に入れば税込20万円の給料をもらい、土曜、日曜日は休日がある。一方社会のレールから外れた人間は、並外れた能力を有する者や、親の庇護を受けられる者は別にして、厳しい不条理をつきつけられる。
全ての人間には、豊かに幸福に生きる権利がある。しかし現実はどうだろう。1枚の成績表や、合格通知で若者たちが選別されて行く。
毎年3万人が自らの命を断ち、一人暮らしの老人がその2倍も3倍も孤独死をして行く国が豊かな国だろうか。公務員や一流企業に勤めるサラリーマンと、下請け企業に勤める地方の労働者の経済格差は広がる一方だ。我々のような自営業者は言わずもがなである。
したり顔の大人は努力が全てだと言う。
今時の小学生でさえその嘘の本質を見抜いている。100人が努力をしても、そこには必ず100番目のレッテルを貼られる人間が存在し、門戸を閉じられる人間が出て来るのだ。
人間は平等なんかじゃない。しかし人生にチャンスは平等にやって来る。問題はその機会をそれぞれがどう受け止めるかだろう。
近年大学進学率の上昇に伴い、高校での専門課程が激減してきた。東北でさえ農業高校が次々と消え、商業科や情報処理科などの学科が消えた。
前回の記事でも書いたが、am と is の区別もつかない高校生に週数時間英語を教えるよりも、重機機会の操縦の仕方やフォークリフトの運転免許指導をやったほうがずっと、将来役立つ気が僕はする。
彼らが数学の微積や英語の分詞構文を前にして、鼻くそをほじくり惰眠を貪っている姿を努力不足と決め付けるのは、お門違いのような気がしてしょうがない。
幸福とは何だろう。今日本人は、真剣に考えなければならない。
このブログが一人でも多くの皆様の心に届いていただければ幸いです。
応援のワンクリックをお願い致します
コメント