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2012年3月 7日 (水)

間違いなくそんな時代だ

東日本大震災の津波で南三陸町の防災対策庁舎にいた41人が犠牲になったのは、佐藤仁町長が高台に避難させなかったためだとして、町職員2人の遺族が6日、業務上過失致死容疑で南三陸署に告訴状を提出した。同署は「資料を精査して、受理するかどうか検討する」としている。

 告訴状によると、佐藤町長は震災後、庁舎2階に災害対策本部を設置。大津波警報が発令されても、町職員らを庁舎内にとどまらせたとしている。3月6日(産経新聞)

殉職という言葉が正しいかどうかは定かではないが、状況判断のミスによって尊い人命が失われたことは遺憾である。

しかしあのような状況で、トップダウンシステムによる行動規範の指示が集団にくだされることの是非は、判断が難しいかっただろうと思う。

生死を分けた要因は偶然や運などではない。そこには多くの様々な判断や、経験による直感、、身体能力による差異があってのことだ。

未曾有の災害だった。多くの犠牲を出してしまった小学校も、団体行動の指示ミスだった。

『危険を察知したら逃げろ』この行動規範を徹底して教える家庭は少ないだろう。日本はどうしても団体行動が規範となる。

みんなといれば安全、そんな神話は崩壊した。今後やってくるだろう災害に備えるべきことは、自分や家族を守る繰り返しのシュミレーションだろうと思う。

ここに居るときはあそこに逃げろ。あそこに居るときはあっちを目指せ。絶対あそこには留まるな。家族の集合場所やメモを残す場所などの確認を、やらなけれなならない。間違いなくそんな時代だ。

落ち着いて行動するという意味は、決して団体行動を順守せよという意味ではない。指示者のミスや誤解や無知は常に日常に介在する。自らの直感と、日頃の感覚を鍛えるためには、観察眼を持つことだろう。

そうじゃなければ、亡くなられた方々の多くの命が悲しすぎる。

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コメント

すべての河川に「転落防止の柵」が付けられ、いたるところに「危険近づくな」の看板が立てられ、「さわると火傷します」「破裂します」「倒れます」……。

どれだけ注意喚起したって事故がなくなるはずがありません。

反対に、すればするほど、人間個人個人が本来持たなくてはいけない「危険を察知する能力」がそがれてしまうのではないでしょうか。

幼いときから親に、身近な危険から順番に教えられ、本能と相まって観察力や危険察知能力を発達させなくてはいけないはずなのに。

ナイフで慎重に鉛筆を削ったり、ドキドキしながらガスコンロにマッチで火をつけた恐怖感など、すべて必要な経験だったのだと思うのは、あながち歳だからではないと思うのです。

もちろん今回の大震災は、その想像力、危険察知力をも凌ぐ破壊力だったのは間違いありませんが、私もたかをくくらないようにと自戒せねばと思います。

(かねごん)
さくら様コメントを頂きありがとうございます。
小さい頃から余りにも危険を経験する機会がなく、自然の脅威を推し量る能力が、乏しくなっていると思います。
僕らはもっと自然児であるべきでしたね。


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