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2011年11月27日 (日)

魂の習癖

僕は運命論者ではないが、人間にはそれぞれの指向性があると思っている。魂の習癖と言ってもいいだろう。

恋愛などを見ていると分かるが、何度も何度も同じタイプの馬鹿男に騙される女性がいる。懲りずに、思わず惹きつけられてしまうのだ。何故だろう。

例えば放射能値が高いですよと言われているのに、平気で椎茸やキノコ類を調理してしまうお母さん。空気線量が1マイクロシーベルトを超えているのに、避難しない家族。何故だろう。

広島や長崎で被曝した方が、100歳まで生きる人だっているんだから大丈夫だとテレビで言っていた方がいたが、今回の福島第一から出された放射能は広島の30倍とも言われている。そのような発言を平気で出来る人がいるのは何故だろう。

きっと、悪気はないだろうし、痴呆でもないし、感覚が麻痺しているわけではないだろうと思う。自分の人生のシナリオに耽溺してしまっているのだ。

勉強ができない子は、勉強をするふりはするが、勉強はしない。優しくない人は、優しいふりはするが、他人を助けることはしない。放射能なんてどうでもいいと思っている人に、どんな現実を突きつけても気にしない。そのような人生を選んでしまっているのだ。

政府に洗脳されているわけでも、あやしい宗教に染まっているわけでもなのに、破滅の選択をする人がいる。彼ら彼女らは、負のスパイラルを演じている。そのことによって正しい道を選択する人もいるわけだ。つまりは反面教師ということになるのだが、厳しい人生だ。

今年の夏、僕の住んでいる山里では、カッコーの鳴き声を一度も聞かなかった。ウシガエルも鳴かなかった。危険を察知して何処かへ行ったのか、それとも放射能の影響をもろに受けたのか、真相は分からない。

ヨウ素は甲状腺を被曝させやすい。甲状腺というのは声帯機能にも異常をきたす。するとあれだけの声を出す生きもの達に、何らかの影響を与えたのではないだろうか。例えばそんなことを想像するのは、僕の感性というか魂の習癖だ。

楽観主義とポジティブ思考は違う。楽観主義というのは問題を棚上げしている状態だ。利己主義者が正義を装い、他人の思考を常に借りて、世論に便乗する偽善者だ。そして政治家や自称知識人に非常に多いタイプだ。

一応僕は世間から先生と呼ばれているが、この先生と呼ばれる人種ほど鼻持ちならない人種はいない。専門教科を教えられるぐらいで、人生を語れる哲学者だと自分を勘違いしている輩が多い。魂の成長という観点から見れば、喜ばしい職業とは言いがたい気がする。

だから僕は子ども達の前では人生は語らない。僕の指導を受けている高校生に聞いてもらえば分かるが、脱線する話題はシモネタと笑いの渦だ。腹筋が痛くなる授業ーそれが僕の授業だ。

人間は威張っているけれど、一人じゃなんにもできない動物だ。とっても未熟な存在だ。その未熟さを分かっていればこそ、謙虚にならざるを得ないはずなのだが、まるで滅亡を待ち望んでいるかのように暴走する。

原子力も戦争も、そして支配も、やめることが出来ないとしたならば、それは今地球に生まれている魂達の習癖なのかも知れない。でもそのことに気づきさえすれば、きっと僕らは変わることが出来る。

だから僕らの存在理由を考えようじゃないか。・・あれ、ひょっとして人生を語っちゃたかな。だから僕ら塾教師というものはバッシングにあうんだな~。これも魂の習癖だろうな。

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コメント

こんばんは。
放射能濃度が高くても平気でいられるのは、放射能が目に見えず、直ちに人体に影響がないからではないでしょうか。
多分、影響が出てくるようになれば、かなりのパニックかと。

(かねごん)
みち様コメントを頂きありがとうございます。
パニックにならない前に、しなければならないことを知らせる義務が政府にはあるのですが、政府は全くあてになりません。
空気線量が1マイクロシーベルトを超える所には住んではいけません。0.4マイクロシーベルトを超える土地の食べもを食べてはいけません。寝室が0.2マイクロシーベルトを超える所に子どもを寝かせてはいけません。
チェルノブイリの教訓が生かされていない現実に唖然とします。

私が高校生のときに先生に言われて、どうしても忘れられない言葉、それは「君たち、今は、何も考えるな!」です。
私立の有名進学校です。
そのとき思ったのは、
「はぁ?私は、今、常に、一瞬一瞬、自分の頭で考えてる。人間は考える葦っていうじゃん!色んなこと感じたり、考えるのが人間じゃない? 
今考えなくて、いつ考えるんだろう?
十代って、人生の中で一番純粋にいろんなこと考えられる時期だ と思うんだけど!
私は考えない人には、なれないし!」です。

上の人の言うことを素直に、何も考えずに、きくのがいい、という教育を受けて育ってきているので、物事を深く考える事ができない、自分の考えが持てない、人が日本には多いということではないでしょうか?

(かねごん)
hanamori様コメントを頂きありがとうございます。
教育がおかしくなったのは、お金を優先する社会が発言権を持ち、精神や魂の教育を忘れたからにほかなりません。
今日本ばかりではなく、多くの国がお金で困りはじめています。
原子力の問題は、明らかにお金と経済の貪欲さが生んだ負の遺産です。そのことを考えれば、自ずと僕らが選択する社会が見えてくるのではないでしょうか。

仙台市民です。

こちらもこれまで、自ら線量計を購入するなどして自衛策を取ってきました。
けれど、結局それらは『無意味』と判断するに至りました。

なぜ、マスコミは放射能の問題をクローズアップしないのか?
なぜ、一関市は放射能問題に迅速な対応を行わないのか?
なぜ、放射線の恐怖を煽る学者達が異端視されるのか...

放射能の影響は分からない以上否定しません。
けれど、どんなに放射能が恐ろしくても、
事故・天災・病気・・・人間は様々なリスクと背中合わせで生きています。

つまり、仮に放射線が自分や自分の愛する者を蝕んだとしても、
普通に生きて行く上でのリスクが一つ増えたに過ぎないんです。

世の中の多くの人々は、その『本質』を本能的に理解してるから騒がないのです。
健全な未来を信じてる人々は、仮にその結果として人生が崩壊したとしても、
「負のスパイラル」」とは思いません。どう思うかと言うと...『運命』です。

あなたが悲観するほど他人は悲観していないことを事実として受け入れてください。あなたの思いがどうあれそれが事実です。

その上で『伝えて』ください。

「明日交通事故で死んじゃうかも?」
「明日凶悪事件に巻き込まれて死んじゃうかも?」
「明日放射能で死んじゃうかも?」
これらは確率論ではありませんが、全て同一線上にあることです。

ブログ主さんの“健全で前向きな思い”に反し、
このブログはなぜか『後ろ向きな邪念』を放出してます。

私は霊能者じゃないんですが、
このブログを更新するとき、首の後ろを押される様な感覚とかありませんか?

私、首が妙にツラいんですけど...
ああ、単なる首こりかぁ!(^◇^♯/

ともかく、明と暗のオーラが妙に混在していて、
私の様な若輩者にはキツイブログですね...

強い影響力のある方だけに、
今一度ご一考願います。^^

(かねごん)
YURI様コメントを頂きありがとうございます。
きついブログであることは認めます。生きる力は感情や世間の空気感では育むことは出来ないと思います。
各自の持っている直感や魂の指向性は周りの抑圧で、放射されることもあります。
ご指摘の通り、首の後ろをむんずと抑えつけられる感覚はありましたね(苦笑い)。
僕は背後霊までも味方にはできませんが、説得はしてみようかなと思います(笑い)。

そうだ、そうだと頷きながら読ませていただきました
特に「楽観主義とポジティブ思考は違う」

私はどちらかと言うと悲観主義者です
でも日常の生活はとても行動的です
悲観主義者だからこそ
色々なことに対処して先手を打って行動していく
自己分析が出来ました
有り難うございます
 
(かねごん)
yaeko様コメントを頂きありがとうございます。
やあ、僕の深層心理を読まれてしまいましたね。悲観主義者こそポジティブシンキングが出来るんですね。
そのことを実は言いたかったんですよ。
う~ん参りました。

交通事故や犯罪に巻き込まれて被害を受けるのと放射能の影響で被害を受けるのは同じに思えないのは私だけ??

私も、時々それを考えています。
放射能問題に疑問や目を向けない人は
どのような心理なのか?

経済的に難しいとか、環境的に難しいとか、
おおよそ安全だろうとか、でしょうか。

もしかしたら、めんどくさいんじゃないかなとか
思ったりします。

異議や疑問を唱えたり、不安や不満を主張することに
罪悪感や嫌悪感があるのかなとか思いますが違うでしょうか。。神経質すぎるとか煽ってるとか言われるのでしょうか。。

東電の父親をもつ小学生の手紙が元になった本が出版されました。
彼は、みんなお互いが話し合いの場を持つべきだと
言っていたのを思い出しました。

(かねごん)
たんた様コメントを頂きありがとうございます。
それぞれの事情というのがあるでしょうが、そのことを魂の習癖という言葉で、表現してみました。
不謹慎かも知れませんが、そんな気がします。

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