25年ぶりの再会
昨日のお盆休み初日は、朝にお墓参り、その後一関総合体育館で行われた河北杯卓球大会に行ってきた。我が花泉中学校は団体3位に食い込み、中学3年生の最後の夏が終わった。
帰宅後は汗だくになりながら庭の草取り、植木の剪定をやり、一日が終わった。夕食をとりながらプリン体抜きの缶ビールを飲み、8時にはもう床に就いた。
今日は自宅裏の雑木林の枝を切り、その後は青森代表の光星学院が甲子園に登場したので、テレビ観戦をした。7対6で強豪徳島商業に勝利しベスト8入りを決めた。この勢いで東北に初の真紅の優勝旗を持ってきてもらいたい。
さて明日は25年ぶりに逢う人がいる。僕が東京の学習塾でお世話になった校長先生のジョン先生だ。年賀状のやり取りはずっとやっていたのだが、ほんとに久しぶりの再会である。
大学を終えた後僕は、東京の千歳烏山にある進学塾に勤めた。偶然その教室は東北出身者の先生方が多く、和気あいあいとした雰囲気の塾だった。ちなみにジョン先生も青森の出身である。東京で私塾を開講し25年目を迎える塾屋のベテランである。
当時の思い出話を始めると尽きないのだが、塾業界が脚光を浴び始めた時代で、良くも悪くもお祭り騒ぎのような日々だった。当時の僕の記憶は、仕事を終えた後のミーテイングと称する酒と麻雀の記憶しかない(爆笑)。
ジョン先生は当時小説を書いていて、酒と歌を愛する風流人で、人生の哀愁みたいなものをそこはかとなく漂わせている塾屋であった。当時ジョン先生のお父様は小学校の校長をしており、ジョン先生が校長に昇進した時に、「俺もオヤジと同じく校長になったよ」とニヒルに笑っていた先生の顔が印象的だった。
当時PCもワープロもない時代。ほとんどの教師は手書きか、切り張りの作業がメインだった。ゆえにほとんどの先生方は、切り絵師のごとくハサミの使い方が上手く、芸術的なプリントを作成していた。きっとジョン先生はいまだに切り貼りをやっているような気がする。と言うのは、彼は僕と同じように携帯を持っていない。PCは奥様が使うだけで、本人は使えない。塾ではスタッフがPC関係を全てやっているようなので、まったく興味がないようだ。
かく言う僕も、4年前まではPCの使い方など、インターネットを見るくらいで、全くの無知だった。このブログを社長である女房に勧められなかったなら、きっと現在のジョン先生と同じアナログ切り貼り人間だったろうと思う。
明日は世界遺産登録を決めた平泉を、僕の愛車軽トラックでジョン先生をお連れしたい。夜は僕の自宅での泊まりなのだが、その前に居酒屋での塾談義といくか。楽しみである。
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