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2011年7月30日 (土)

宿題に思う

宿題を出されなければ勉強をしないという中学生高校生を作ってしまったのは、学校の責任なのか、教師の責任なのか、もしくは家庭の躾なのか、考えさせられる現状だ。

僕は公立高校を失敗し、優秀な私立高校に入ったのだけれど(爆笑)、30数年前のかすかな記憶をたどると、宿題なんてものはいっさいなかった。夏休みは思う存分本が読めたし、音楽を聞くことが出来た。

成績によるクラス編成などなかった時代なものだから、クラスにはアルファベットの小文字が書けない者や、正負の計算がままならない者が同居していた。統一した宿題なんてものは効を奏さないわけで、先生も諦めていたのだと思う。

今の私立高校のように大学講座や課外なんてものはなかったので、進学したい人は、予備校に通うなり、独学で頑張ってね♡、なんて言う時代だった。

僕の家は、父の闘病生活などでお金がなかったものだから、私立高校の授業料は奨学金とバイト代で自分で工面した。当然のごとく、塾や予備校に通うお金などなかったので、完全な独学だった。

国語などは、大学受験のために何をやったらいいのかさっぱり分からなかったものだから、早稲田や慶応の過去問を読んだりしたのだが、チンプンカンプンだった。早稲田等の問題を解いたのは、見栄や暴走ではなく、今と違ってなぜか本屋さんには、六大学や国立大学の赤本しか置いていなかったのである。

そのうち現代文を読んでいると、フロイトとかケインズだとか、マックスウエイバー、マルクスなど、ロックシンガーみたいなカッコイイ名前がどんどん出てきた。何か革命的な面白い話が載っているのだろうかと思い、岩波文庫に手を染めたのが、そもそも読書病の始まりだった。

不思議なもので、最初チンプンカンプンだった難解な本も、ある程度の語彙が分かってくると、チンプンカンプンがチンプンくらいになり、最終的にはチンくらいにまでになった(笑い)。

こうなってくると、今度は難解な英文法の参考書まである程度読めるようになるから不思議である。関係代名詞の非制限的用法であるとか、叙述形容詞による直前名詞の修飾の不可、などという説明が理解できるようになって行くのである。後は根性と忍耐力の勝負になる。

塾教師としては、出た高校も大学も四流、五流だけれど、読書体験だけは一流の人間に負けない自惚(うぬぼれ)だけはある。正直、自惚れの一つも無ければ、30年近くも塾教師などをやってこれなかっただろうと思う。

今の子どもたち、特に進学校に通う高校生達は宿題に追われる每日で、自分でチョイスした参考書をやる時間も、統計立てて誰かの著作を読む時間もない。

進学校の生徒は、ほっておいてもやる生徒はやるし、いくら宿題を出されても、答えを写すだけで、やらない生徒はやらない。実際高校生達を見ていると、それが現実だ。

あの大量の宿題を作る時間があったなら、もっと教科指導の工夫をし、授業を充実させればと思うのだが、きっと僕の老婆心ならぬ、老爺心なのだろうな・・・・。

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