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2011年4月11日 (月)

東北人すべての違和感

最近車を運転している時や、買い物をしている時など、急に胸が熱くなり涙が溢れることがある。3月11日の大震災から1ヶ月、僕の魂の痛みは和らいでなどいないようだ。

何度も心配をしてメールをくれる友人がいる。コメントを頂く塾の先生方がいる。ありがたい。

でも僕が被災しているわけではない。確かに仕事は地震のために開店休業のような状況だけれど、家族は元気だし、僕も元気だ。

しかし何かが違う。この猛烈な違和感をどう表現したら良いのだろう。僕の仕事は塾屋だ。数学や英語を教えたり、時に大学受験の論文指導などをする。そのことでお金を頂いているのだから、言ってみれば文章を書くプロだ。

そんな僕が4年前から毎日書き続けてきたこのわくわく日記。既に20万人に近い方々に読んでいただいている。はっきり言って塾の宣伝のために始めたブログであったが、どうも僕の指向性が勝手に違う方向に舵取りを始めてしまった。

そしてそのことに最近違和感を覚える。自分が全国に発信したいのは何だろう。読み手に何を伝えたいのだろう。そんなことを考えながら、相変わらず駄文を続ける毎日だ。

僕のブログを後押ししてくださっているたくさんの方がいることも知っている。多くの方が僕の記事を引用してくださったり、様々なところで紹介などをしていただく。感謝にたえない。しかし3月11日以来、僕は世の中の変動に対して追従出来ていないもどかしさを自分の記事に感じるし、自分の感性に対しても感じている。

言葉はパワーだと思って僕は生きてきた。言葉は勇気であり、希望だと思ってきた。そのことが揺るがされるほど、僕の感性は震災によって攪乱された。

例えば毎日TVで流される『日本を信じている』という言葉。いい言葉だ。しかし言葉が届かない。なぜだろう。日本の誰が誰に向かって日本を信じていると言っているのだろう。

政府は震災に対して多大な援助をするよ、ということだろうか。原発は必ずしや東京電力がなんとかするよ、ということだろうか。きっと違う。

戦後日本が奇跡の復興を成し遂げたように、必ず震災にあった庶民は立ち上がるだろうというニュアンスが僕には伝わってくる。つまり非常に上段から構えた物言いにしか僕には受け取ることが出来ない。つまり僕の被害者意識と負け犬的な妄想と、そして日常のいらだちが、僕を平常心にしていないのだ。

それが違和感の一つでもある。でもそれだけではない。東北人が古代から持ち続けてきた中央に対しての、猛烈な闘争心。蝦夷と中央から蔑まされてきた歴史。奥州平泉以前の中央との戦い、そして破れてきた多くの祖先の悲しみと憤激が、フクシマというキーワードで僕らの深遠に漂いだした気がするのだ。

東京に原発は危ない。事故が起きたら大変なことになる。人口が少なく素直な純朴な人々が住む東北に作ればうまくいく。そこから都市圏に電気を持ってこよう。

言葉にしてしまうと、わずか2,3行の言葉だが、これを言えない状況が日本にはあった。僕がいだいている違和感は、東北人全ての違和感ではないだろうか。

*震災にあい、一関に仮住まいをされる方々で、小学生や中学生のお子様がいっらしゃるご家族の皆様にお願いがございます。大験セミナーでは、被災された子どもたちのために、無料の日曜教室を隔週で行います。僕の塾がやれることはこんなことしかありませんが、落ち着きましたら当塾まで連絡頂ければ幸いです。

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