僕の行き着く塾屋のゴールはまだまだ見えないけれど
僕は何をやっているんだろう。かねごん丸は何処へ舟出しこうとしているんだろう。そんなことをふと考える時がある。
正直言って塾教師という稼業は、ゴールがあるようで無い。予備校の先生や羽振りの良い塾の経営者は、この春休み海外旅行やバカンスに出かける方もいるらしいが、僕はこの30年あまり、プライベートの旅行など行ったことがない。
行かないのはあんたの勝手だろうと言われればそれまでだが、出不精であることは確かに事実ではある。岩手のような地方の町で塾を続けてきた僕が言うのもなんだが、塾という存在の変遷は実は昔から変わっていない。もし変わったモノがあるとしたら、儲からない仕事だと気づいた多くの方が塾をやめたことだろうか。
今の若い世代は、塾教師であることにどのような感慨を持っているのかは定かではないが、僕らの世代は間違いなく日陰者の存在であることをずっと抱えて生きてきた。
なんかずっと頭を下げて生きてきたような気がする。したがって表現は悪いが、若い頃、同世代の学校の先生が胸を張って学校を闊歩する姿が、輝いて見えたのと同時に、あの自信のある態度は何処からくるのだろうと、違和感を覚えたのも事実だった。
人は学べば学ぶほど謙虚になるものだ。それは先人の深遠な叡智の泉に触れれば、その深さに自分の小ささをいやでも見せつけられるからだ。
よく中学生が僕にこんなことを言う。「学校の先生って親にも俺達にもいつも上から目線でモノを言うんだよな。先生ってそんなにえらいのかよ」
身分が保証されているという点に於いては、確かに全く我々とは次元が違う。僕も息子が二人いるので、子どもの親としてもちろん小学校や中学校へは行った。先生の話を聞いていて、この話は塾では親御さんに絶対できないなという事例に遭遇することがある。その内容についてはここでは述べることは出来ないが、同じ先生と呼ばれる仕事ではあるが、全く違う職種であることを実感することが多々ある。
学校生活では否定の命令文が多い。◯◯はするな、という否定形の命令文で命令系統が伝達されていく。Let’sが少ない。
否定形の命令文は、こどもたちを従わせることはたやすいけれど、こどもたちとの信頼感は育ちづらいのではないだろうか。
僕の行き着く塾屋のゴールはまだまだ見えないけれど、子どもたちがほっとする空間を提供することだけは忘れないようにしていきたい。
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