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2010年12月13日 (月)

父の思い出(再掲載)

あと1週間で父の21回目の命日がやって来る。2年半前僕は『父の思い出』という記事を書いた。今日のような土砂降りの夜だった。いろんな思い出が雨と共に僕の心に降ってきて、長い文章になってしまった記事だったが、今日またここに掲載させて頂く。父が死んで21年、僕にとっても節目の年である。

私は農家の長男として、藁葺き屋根が点在する丘陵地帯の、岩手の小さな田舎町に生まれた。私が小さい頃から父はずっと出稼ぎで関東方面に行っていて、半年間は家にいなかった。

父は5人兄弟の長男として、私が生まれた当時、小学生や中学生の妹や弟のめんどうも経済的に支えていた。私は一人っ子だったが、叔父や叔母達と兄弟のように育てられた。自分を自己分析すると、末っ子の持つ性格的特徴が実に多い。

そんな父も私が29歳の時に、孫の顔を見るのを待っていたかのようにして他界したが、苦労の多い人生だった。私が小学3年生の時に交通事故に遭い、そして癌を患い、30代半ばからの父の人生は、いばらの道であった。

父が働けなかった時期、我が家は生活保護をもらい急場をしのいでいた。小学校の頃、給食袋をもらわない私を、同級生が不思議がっていたのを覚えている。当時私は耕運機を運転して、忙しいときは田んぼ仕事を手伝っていた。もちろん小学生だったので無免許運転である。今でも鮮明に記憶している場面がある。

小学校6年の5月の連休だった。小学校の前の道を私が耕運機で過ぎようとすると、校長先生が学校から降りてこられた。「かねごん君、大変だろうけれど頑張れな」 先生の目に涙が浮かんでいたのを、私は今でも憶えている。

校長先生は、当時私が父親の代わりとして耕運機を運転することも、バイクに乗ることもとがめはしなかった。学校でも些細なことまでいつも気を配って頂いた。あの時校長先生の励ましにどれほど救われただろうか。眼鏡越しのやさしい笑顔が今でも私の心の中に焼き付いている。

子どもの頃の父との思い出を一生懸命探すのだけれど、病に苦しんでる姿や、大学病院の病棟に続く長い廊下の記憶がいつもじゃまをしてしまう。しかし春のこの時期になると、いつも思い出す光景がある。

田植え近くに、私は出稼ぎから帰ってくる父を田んぼのあぜ道に立って待っていた。5歳頃だったろうか。タクシーから降り立った父に「父ちゃん」と私が叫ぶと、父ははにかんだ笑いを見せて、おみやげ袋をかざしていた。

そんな父も私が東京に出てからは、寂しかったのだろうと思う。酒をあまり飲まなかった父が、毎晩飲むようになったことを後で知った。その酒が父の寿命を縮める結果となってしまったのだが、父の56年の人生を思うとき、父が家族と離れて過ごした出稼ぎの日々、どんな思いだったのだろうか、病に倒れたとき、どんな思いだったろうか、今父親である私は考えずにはいられない。

祖父がそして父が、丹精込めて耕してきた田んぼは、私の代になって4分の3以上が休耕田になっている。こうやって塾をやっている息子を、天国の父はどんな思いで見ているのだろう。たまに夢に出てくる最近の父親は、いくぶんか安らいだ顔をしている。これでいいのかも知れない。

父は晩年、よく美空ひばりの『川の流れのように』を聞いていた。同じ世代として、彼女の歌に自分の人生を重ね合わせていたのかも知れない。そして同じ頃、美空ひばりと共に天国に旅立って行った。

亡くなる2週間前、私の長男である孫を抱いて嬉しそうにしている父の写真がある。私がしてやれた最後の親孝行だった。そして息子を生んでくれた妻に心から感謝している。

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