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2010年7月30日 (金)

LAST  DAY

誰にでも最後の日がやって来る。僕にももちろんその日は来る。

僕は今はとても元気だが、心も身体もズタズタの時があった。理由は分からないが、『死』というイメージがまとわりつくことが多かった。中年特有の更年期障害だったかも知れない。

僕は決してカウンセラーではないが、仕事上どうしてもそのような立場にならざるを得ない時がある。毎年ぎりぎりの崖っぷちに追い込まれる生徒がいて、そしてその生徒は間違いなく家族をも巻き込む。

教室で急に泣き崩れるお母さん。うつむく生徒。学校の先生には失礼だけれど、親御さんは教諭には本音をさらけ出さない。40代のご父兄が、20代や30代の先生にもし人生の悩みを相談出来るのなら、学校はもっと違うものになっていた。

これほどまでに不登校も生れなかっただろうし、70万人とも言われるひきこもりも生れなかったに違いない。

僕は教員の採用試験を受けたことがない。それどころか卒業するのがやっとの状況だった。そんな僕が学校教育云々など言う資格もないのだが、年寄りの愚痴だと思って聞いて欲しい。

親御さんの職業は様々だ。経済状況も、時に国籍さえも違う。

塾というところは不思議なところで、親御さんは本音をぶちまけてくる。子供たちもそうだ。「学歴がなんぼのものですか。先生ってモノはそんなに偉いんですか?」そんな言葉を単刀直入にぶつけてくる方もいる。

学校の先生に限らず、自己中心的な自称知識人は多い。もちろん我々塾人もそうかも知れない。綺麗事の理想像を語り続けることはたやすいが、多くの人は語り部としての魂は持ち得ていない。

大学の友人に小説家の卵がいた。国立大学を中退し、僕のいる大学に入ってきた。一日にタバコを5箱吸い、一ヶ月に2度精神科に通っていた。彼は自分の生い立ちをまさに小説のように永遠に話す特技を持っていた。彼には失礼だったが、当時曲を書き、詩をしたためていた僕にとって、彼の感性は非日常的でとても刺激的だった。

彼はよく、自分の最期の日を話してくれた。太宰や三島の文学を語り、彼らにとっての死が、彼らの文学の終焉ではなく、後世に言葉の残像を残そうとする魂の見えざる策略だと語ってくれた。言葉が完結したならば僕の人生はいつ終わってもいいのだと、その友人は2歳年下の僕に語ってくれた。

病気での死も、事故死も、自殺も、死には変わりないが、魂の存在を信じないものにとって、その感情や感覚のゆらぎはだいぶ僕とは違うはずだ。

小説やドラマで演じられる人生の断片を、僕らは楽しむことはできるが、決して同意しているわけではない。子供たちの人生を見つめる教師の感情も同じようなところがある。各人が歩んできた道が、正しい道だったと思うことは何も悪いことではない。しかし自分の価値観が共有できないものを、小説やドラマを見ているように傍観してはいけない。

プロのカウンセラーは、クライアントに同情していけないし、怒りや悲しみのゆらぎを見せてはいけない。しかし僕は、先生と呼ばれるものはその真逆でなければならないと思っている。

最後の日に、どれだけ自分が他人のために素になれたのか、そのことを実感できれば、僕の先生稼業もまんざらではない終焉を迎えるのではないかと、勝手に思っている。

今こそ魂の教育が必要であると思う。女房との二人三脚の暗中模索はまだまだ続きそうだ。

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