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2010年5月29日 (土)

原風景

原風景という言葉に出会ったのはいつの頃だったろうか。荒涼とした冬枯れた原野に竚むキツネの姿や、空を舞うハヤブサの姿。故郷の風景がやけに寂莫として感じられたのは、故郷を離れて都会暮らしを始めたときだった。

均一化していく日本の街の風景ではあるが、その街独特の光や風、そして人々の息遣いがある。

僕が過ごした1980年前後の東京の街には、土着的な農民たちの汗のほとばしりが、風景の至る所に感じられた。僕が最初に住んだ八王子の街も、小田急沿線の町田も、駅からバスで15分もゆられると、一面の麦畑が広がり、シラス台地特有の黒土が陽光に暖められ、土の匂いが陽炎とともに押し寄せて来る感覚に襲われたものだ。

人はたとえ20階建てのマンションに住もうが、コンクリートの上で日々を過ごそうが、土の恩恵を日々食し、そして間違いなく土に帰っていく。

都会の人々が、非人工的で無秩序な朽ちて行く自然を目にした時に感じる嫌悪感は、もしかすると、日常追いやっている死の感覚が喚起されるからではないだろうか。

そう言えば、都会の死は至る所で封印されてしまった。犬の死骸も、猫の死骸も、そしてカラスの死骸も東京の街で見かけることはない。人の死さえもそうだ。

かつて、どうしてカラスや野生の鳥たちの死骸は存在しないのか、などという本が出版されたことがあったが、何のことはない、僕の回りには雀も燕もそしてカラスも、死ねば間違いなく大地に横たわっている。

田舎の葬式に参列していつも考えることだが、死を看取るのは田舎に残っている長男や長女ばかりで、都会に住む息子や孫たちが駆けつける頃には、遺体はきれいな棺に収められていて、人が死に向かう壮絶でそして荘厳な最後に出会える、田舎を離れた都会人は少ない。

若者たちは自らの孤独を癒すかのように都会に出て行くが、その都会も決して孤独を癒す場所とは限らない。

僕にとって、青春を過ごした東京の街が原風景になりつつある。原風景とは、自分が決して戻ることのない風景であり、今を生きている情動を無意識に操っている呪縛であり、夢の残像のような気がする。

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