大人と言われる存在
日記を毎日書くという行為は、自分の気づかない感性や習癖との遭遇でもあり、日々小さな驚きの連続でもある。
肉体が疲労した時の自分の心の体調や、嫌なことがあった日の自分の文体のようなものを後で紐解くことで、自分という不確かな人間の分析ができるのも日記の長所ではなかろうか。
僕は21歳の時から24歳までの3年間、毎日日記を書いていた。10代を過ぎ、大人になって行くことで、自分の中で鈍化してしまっていく青臭い青春の感覚みたいなものを書き留めておきたいというのが、その頃の日記を書く自分の気持ちだったような気がする。
従ってこうやって2年以上も毎日日記のようなものを書き続けているのは、ほぼ30年ぶりぐらいのことで、自分ながらに何か成長したものがあっただろうかとふと思うわけであるが、正直言ってそれほどの人間としての成長があったようには思われないのである。
時に人間は、若い頃のほうが正義感が強く、物事に対して純粋で、ひたむきなところがあるものだ。自分で言うのもおこがましいが、僕もそうだった。
大人になって年を取ると言うことは、ある意味生きることのごまかし方を会得して行くことでもある。NOと言いたいのにNOと言えない自分や、何もかも投げ出したいのに絶対に出きない自分、そんな葛藤をコントロールして生きて行くのが、実は大人と言われる存在なのだろうと思う。
心の置き場を隠せても、肉体的身体の衰退を隠せないのが人間である。僕なども父の亡くなった年齢に近づいてきた。疲労感が溜まったときなどは、仕事をセーブしなければと思うのだが、なかなかそうもいかない。
こんな不安定な仕事を営んでいるものだから、老後の蓄えなどこれっぽっちもない。ハッキリ言ってしまえば、老後なんて僕にはないだろうと思う。事切れるまで全力疾走である。そんな人生もいいのではないかと思うハゲオヤジである。
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かねごん先生
おはようございます。
先生のご友人の小林先生に飛び込みました。
こんな上野でも受けとめていただけました。
これも先生とのご縁です。
ありがとうございます。
ところで、ところで・・・。
春にとよ爺先生にお会いに行かれると・・・。
私も合流させてください。
私はかねごん先生や小林先生ともお話がしたいです。
(かねごん)
上野先生度重なるコメント恐縮です。ありがとうございます。
家内の実家が神奈川の相模原市なので、とよ爺先生の街はすぐ近くです。5年間ほど家内の実家にはご無沙汰しています。
今年の春は平塚で、ぜひとよ爺先生とそして、上野先生や美川先生らと合流したいですね。
春期講習の日程と、とよ爺先生のご都合を伺って決めたいと思っています。
投稿: 上野義行 | 2010年2月 9日 (火) 10時46分
私もですか!
そうなるでしょうね。
相模原や平塚だとすれば、
鎌倉出身の私が上野先生の
ナビしないと辿りつけないでしょうから。
ふっふっふ。
おもしろいことになってきました。
(かねごん)
美川先生おはようございます。
2年前から、とよ爺先生ツワーを決行したいと想い続け、なかなか実現しませんでしたが、今回はあらゆる仕事のオファーを断り、実行したいと考えております。ハイ!
投稿: 忍者 | 2010年2月10日 (水) 00時16分