エネルギーが錯綜する
塾には様々な子供たちがやって来る。それぞれが個性の塊だ。ひたすら黙々と問題を解きまくる生徒。3分毎にため息をついて時計を見上げる生徒。「先生肩こっていない」と言って、勉強を中断して僕の肩をたたいてくれる生徒。なんだかしらないけれど、20分ごとにトイレに行く生徒。いろんな息遣いと、いろんなエネルギーが毎日塾という空間の中で錯綜する。
中には勉強が好きじゃないけれど、塾は好きという生徒がいる。先生ちょっとちょっとと僕を呼んでおいて、勉強の質問ではなく、学校でのいろいろな鬱憤(うっぷん)を永遠と語る生徒がいる。
僕はそれでもいいと思っている。大人である僕との会話のキャッチボールを通じて、彼らは何かを模索しているのかも知れないし、ちょっとクセのある大人の世界を覗いているのかも知れない。
うるさいと怒鳴ってしまえば、萎縮して子供たちは縮こまってしまうけれど、彼ら彼女らが気さくに語りかけてくる言葉に耳を傾けてみると、その言葉の中に子供たちの本音が垣間見えてくる。
時に僕の塾はうるさいのだけれど、その喧騒の中で僕は、子供たちの元気な声とは裏腹に、子供たちの声なき声を聞くことがある。子供たちのつかの間の喜びも、一瞬の不安も、そして悲しみも、子供たちは隠そうとしない。
もし子供たちを理解することができないのだとしたら、それは僕ら大人が子供たちをすくい上げる言葉を失っているからだ。
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