経験を共有してみる
僕はゲーム感覚でいろんなモノになってみる。猫はどんな感じだろう。犬はどんな感じだろう。テーブルの上に置かれたコーヒーカップはどんな感じだろう。道路に捨てられたジュースの空き缶はどんな感じだろう。
するとおもしろい感覚に包まれることがある。すべての存在の意図することが、じわ~と僕の体内にあふれ出す。
これはいろんな立場の人間になってみる時に、非常に役に立つ感覚だ。正負の計算が分からない中学生はマイナスに対してどんな感覚だろう。江戸時代の次が何時代か分からない高校生の時代感覚はどんな感じだろう。自分の名前をローマ字で書けない中学3年生は、どんな意識を英語に持っているのだろう。
僕は指導中に、子供たちの心にそっと降りて行って経験を共有することがある。長年教師をやっている方ならばきっと同じような経験があると思うのだが、例えば数学が全然分からない生徒の前でじっと文字式を見ていると、数式が意味をなくし、わけの分からない暗号のように見えてくることがある。
逆に理科が得意な生徒に指導をしていると、自分が気付かなかった原理公式の意味がすっと入ってくることがある。不思議なものだ。
この子はこんな感覚なんだなと、閃くことがある。同調とでも言うのだろうか。波動のキャッチとでも言うのだろうか。きっと僕だけの特殊能力ではないだろうと思う。多かれ少なかれみんなが持っている能力に違いない。
総合病院に行って検査などを受けると思うことだが、若いお医者さんはパソコンの画面に写しだされる血液検査やCTスキャンのデーターを眺めるだけで、僕の喉を見ることもなく、胸に聴診器をあてることもななく、脈を取ることもない。
学校教育もしかり、実力テストとのデーターと通信表の点数を武器に進路指導をこなす先生がほとんどだ。
人間は暗記力とデーターの分析力は、数字ではパソコンにかなわないかも知れないが、人間には機械など追従できない感知能力が秘められていることを忘れてはいけない。想像力と、感性のほとばしりをおろそかにしてはいけない。
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