塾の存在価値
僕はこの2年間塾教師としてのぼやきばかりを書いてきて、なぜ世の中に塾が必要なのか、必要とされてきたのかという塾をやるうえでの根本的な思索めいたものを論じてこなかった。ゆえに、僕のブログを初めて読んでいただいた、塾の保護者の方々からは、「塾のブログですよね?!」と言うような微妙な感想をいつも頂く(・・・笑い)。確かに宇宙人の話であったり、自分のハゲの話であったり、塾のブログとはほど遠い内容の日記である。
そういうわけで今日はあらためて、塾の存在価値というものについて言及してみたいと思う。
塾の必要性という意味では、なぜ子どもは塾に来るのか、という側面から眺めてみると分かり易いと思う。僕の塾教師歴も今年で28年になる。東京の私塾を2年、地元の塾に勤めて6年、そして今の塾を始めて20年目を迎えた。そんな中で、僕が塾の存在価値に対して考えてきたことをちょっとまとめてみたいと思う。
子どもたちがなぜ塾に来るのか。僕は自宅でコーヒーが飲めるのに、わざわざ喫茶店に出かけて行ってコーヒーを飲む理由と同じではないかと考えている。
学校の勉強で十分だと思える生徒がわざわざお金を払って塾に来るのは、自分の勉強の安らぎの空間を求めてくるのと、お客さんとして大切に扱ってもらえる快さというものが多分にあるのではないかと思っている。
学校で子どもたちは決してお客さん扱いなどされない。それどころかトイレ掃除はあるし、テストの点数がひどすぎると部活を停止され、服装が乱れていると言っては叱られ、返事がなってないと言っては叱られ、学校の先生には失礼だが、褒められることはそんなにないのではないだろうか。はっきり言って子どもたちは楽しくないのである。
他の塾はどうか分からないが、僕が大声で怒鳴るのは塾生がうるさい時だけである。いけないと思ったときは、とくとくといけない理由を子どもに説明する。生徒が守らないときはまた同じように言って聞かせる。それでもダメなら塾をやめてもらう。
僕が25年間近く通い続けているモリソンという喫茶店がある。一関ではベイシーと共にジャズ通に知られている老舗である。マスターの小原さんは、常連客のお客さんのその日の気持ちを察する天才だ。
そっとしておいた方がいいのか、話しかけた方がいいのか、お客さんの入ってくる様子やコーヒーの頼み方で、瞬時に判断する方だ。僕は塾をやってきて、彼のその天才ぶりを何とか真似ようとしてきた。子どもたちも日々によって、かまって欲しいときや、そっとしておいて欲しい日というのがある。
子どもたちを甘やかしてはいけないだろうけれど、子どもたちに気を使わない塾は生きて行けない気がする。子どもたちがなぜ塾に来るのか。自分のために入れてもらった一杯のコーヒーにほっとするように、自分のためにだけ用意されたプリントを勉強するその誇らしさみたいなものが子どもたちにもあるのではないだろうか。僕はそんな気がする。
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まいど、学び舎です。
「自宅でコーヒーが飲めるのに、わざわざ喫茶店に出かけて行ってコーヒーを飲む理由と同じではないか」という金田先生の説明には脱帽です。まさにその通りではないでしょうか。
なぜ学校があるのに塾に来るのか。塾に求めてくるものがあるから、われわれの商売は成り立つわけですね。そうだ、そうなんだなあ。これは至言です。塾の経営に迷ったときには、この言葉を思い出そうと思います、冗談ではなく。
(かねごん)
小林先生コメントを頂きありがとうございます。
塾の本質は子どもたちに勉強を教えることでしょうが、根底にあるのはサービス業だと思います。そう言う意味ではこのブログもその一環だと思っています。塾を批判する論評が昔のようになくなりましたが、逆に何か不気味なような気がするのは僕だけでしょうか。
空気のような存在にならないように頑張らなければならないと思うこのごろです。
投稿: 学び舎主人 | 2009年8月29日 (土) 00時36分