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2009年5月10日 (日)

楽しく生きようじゃないか

ピアノの鍵盤を見ても、ギターのフレットを見ても、そこにすべての音があるだけで、それ以外の音はどこにもない。

しかし数限りなく曲は作られメローデーが生まれていく。本当に不思議だ。譜面に出来ない音程も和音も存在しない。世界中のどんな楽器でも必ずいずれかの音を出す。♭がついたり♯がついたりミュートしたりはするけれど根本の音は変わらない。

これは言葉にも言えることで、英語でもフランス語でもギリシャ語でも人間の感情をあらわす言葉は必ず存在する。悲しみや、喜びや、辛さなど、当然のことながら文字や響きは違ってもその国ごとの表現は必ずある。

至極当然なことだけれども、その当たり前のことがとても不思議で感動することがある。

まったく知らない言葉や音楽でも、その曲が希望を歌っているのか、悲しみを歌っているのかは分かるものである。同じように人間の表情もそうである。民族が違っても人種が違っても、感情は顔に表れる。

ましてや同じ日本人である小学生や中学生を教えていて、彼等彼女達の感情を汲み取れないはずはないのである。

つまらない顔がいっぱい並んでいたら、きっと何かがつまらないのである。飽き飽きした表情をしていたなら間違いなく飽きているのである。

私は音楽もたくさん聴くし、小説のたぐいも人並みに読んできた。音楽や文学がなぜ存在しているのかもそれなりに分かっている大人のつもりである。人間が生きて行くということは、自分を表現することだと思うし、心の思いというものがどれだけ奥深いものかも知っているつもりだ。

子供たちが楽しく嬉しそうに勉強させることが、なぜ大人は出来ないんだろうと思う。それは自分も含めての反省である。楽しくやることに、何か罪の意識を感じているのだろうか。笑いが教室で起きることがいけないのだろうか。

まじめであることと楽しくやることは、相反するものではないはずである。楽しい会話や楽しい話題を提供するために、言葉や音楽や文学があっていいはずである。世相が暗いとどうしてもその暗さを緩和するような、音楽や文学が生まれがちであるし、このような不況が続くと、転ばぬ先の杖的な話題がどうしても多くなる。

音楽や文学は、時代を生きている苦しい人たちの心情を代弁する機能というものを持っている。しかしそれは、あくまでもカモフラージュであり、ある種の逃避のような気がしてならなかった。私は人生が辛い時こそ、大変な時こそ、前向きな明るい音楽や、心から生きる力が湧くような本を手にすべきであると考えている。

多くの鍵盤があるのになぜ悲しい曲を作らなければならないのだろう。素敵な素晴らしい言語が山ほどあるのに、なぜネガティブが言葉をチョイスしなければならないんだろうか。

楽しい将来のために今苦しい思いをしなければならないことなどないのだ。楽しい将来のために楽しくおおいに学べばよい。わざわざイバラの道を歩むことはないのだ。マイナーな曲より、メジャーな曲を聴こうじゃないか。

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