腹八分目の勉強法
ふと気づいたら今年ももう5月に突入した。今日から世間は5連休である。
昨日は午前中高校での授業が終わった後、家内と市内の配志和神社に参拝し、その後蘭梅山を散策してきた。いたるところに山菜が芽吹いていた。山の神様に勝手に了解を得て,こしあぶらを採ってきた。夜、家内に酢味噌あえにしてもらいいただいた。まさに春の味である。おいしかった。
私が教えている高1のクラスの生徒が、老眼鏡をかけ出席簿に顔をうずめている私を見て、「こないだ水沢に夜回り先生の講演会を聞きに行ったんだけど、かねごん先生もう少しやせたら夜回り先生そっくりだよね」とのたもうた。
ひげと眼鏡が似ているだけである。水谷先生はかつてのブログでも書いたが、私が尊敬する教育者の一人である。水谷先生が隣町に講演をしに来たことを私は知らなかった。
『水谷先生の講演会スケジュールの公開につきまして、水谷先生ご本人の申し入れにより、
さて、ゴールデンウイーク中、高校生や中学生は学校から各教科いっぱい宿題が出されたようだが、私は塾でも高校でもほとんど宿題を出さなかった。生徒はほぼ毎日部活動で連休が過ぎていく。家族とのんびり過ごす時間もない。この上宿題が多量に出されたならば、何のための連休か分からない。ゆえに出さなかった。
そもそも宿題が無いから勉強をしないという悪しき習慣は、宿題そのものが作ってしまった功罪であると思っている。
私たちが中学校の時など、春休みの宿題はまったく無かったし、夏休みも薄いワークが一冊出されただけだった。それでも勉強するものは他の勉強を工夫してやったし、そしてもちろんやらないものはそのワークさえやらなかった。
同じ世代でも進学校に進んだものは宿題がいっぱいあったかも知れないが、私など普通科とは名ばかりの専門教科を勉強するのが面倒くさい、サボり自由人の烏合の衆だったので、宿題も無かったし、先生方による勉強の締め付けもなかった。おかげで自分のペースで自分のやりたい勉強をやることが出来た気がする。
自分なりに創意工夫する習慣は、高校時代の先生方の放任主義のおかげで培われたものだと思っている。その点では勉強に対して今のように干渉してこなかった先生方に感謝している。
手取り足取り教える家庭教師のような塾や指導方法がもてはやされているが、私はあまり賛同できない。もちろん月謝も高いようだが、そんな教え方をされて育った若者に個性的な自立心が湧くとは思えない。
教員試験や公務員試験まで専門の予備校で学ぶ風潮はいかがなものだろうか。腹八分目という表現があるが、勉強も同じ気がする。10を習って8を知る勉強ではなく、8を習って10を知る勉強でなければならない。
塾をやっていて言うのもなんだが、お金をかけない勉強法はいくらでもある。
« 塾保険 | トップページ | 追悼 忌野清志朗さん »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- せっかくの人生だもんね(2018.07.05)
- 長旅から帰ってまいりました(2018.05.04)
- 神様を信じている人と信じていない人の違い(2018.04.26)
- 4761回目のつぶやき(2018.04.11)
- 流転(2018.03.25)
« 塾保険 | トップページ | 追悼 忌野清志朗さん »
コメント