弱さという幻想
不登校について、塾教師という立場で多くの相談をいただく。私は学校に行けない、あるいは行きたくない理由を中学校時代不登校であった若者達にずいぶんと話を聞いてきた。かならず返ってくる言葉が、学校の先生がいじめや言葉の暴力に気づいてくれなかったという回答である。
一方先生方の立場にしてみれば、生活指導、教科指導、そして部活動や職員会議等の多忙さの中で、40人クラスを受け持たされ、誰がいじめられ、どんな人間関係が展開されているのかを詳細に掌握することはとても難しいという声が聞こえてくる。
表だったいじめや暴力ならばある程度対処がしやすいだろうが、最近のいじめは巧妙かつ陰湿になってきている。一見表向きは仲良しグループに見えていても、陰では二面性を持つ子ども達がいる。
昼時間や放課後の監視まで教師がやることは事実上不可能に近い。我々の頃もいじめはあった。しかし決定的に違うのは、陰湿ないじめに対しては正義感のある同級生や親分肌の先輩が黙ってはいなかった。そういう意味では、生徒間同士による監視システムが暗黙の了解のうちに機能していた気がする。
かく言うわたしも中学校の頃は生徒会をやっていたが、弱いものいじめをしているやつをちょと呼び出して懲らしめたものである。(いまだに私を恐れている後輩諸氏が何人かいるが・・・)今はどうかと言うと、他人に干渉しようとする子供たちが激減している。これは親を含めての状況かも知れない。
触らぬ神に祟りなしという言葉があるが、人間たるもの時に、祟りさえも恐れず、自分の正義と勇気を奮いおこし、前進しなければならない時がある。そんな人間が神様に守られないわけがない。困っている人がいたら助けることは、至極当たり前のことで、もしその行動に何かためらう理由があるとするならば、それは弱さという幻想だ。
正義は必ず勝つ。それが世の中の仕組みであり、道理である。
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私が中学生だった頃、それはもう40年も昔のことですが、私の中学には、義勇組みたいなグループがあって、悪さをする生徒と向かい合っていたことを思い出しました。昨日の電話子ども相談では、クラス委員が悪口を言い合っている生徒たちをまとめようという話が出ていました。今も正義感溢れる生徒がいるんだ、と思って嬉しくなりました。その一方で、教師はもっと、子どもたちのあり方に目と気を配らないといけませんね。マニュアル的な対応しか出来ないと、生徒は離れてゆきますね。少なくとも学生時代は、正義が勝つ、ということを教えて欲しいです。
(かねごん)
せなじいさんコメントありがとうございます。
私の記事にいつも共感のコメントを頂き嬉しく思います。生徒が全部独りよがりなわけではありませんが、自己中心的な傾向は昔と比べると強くなっていると思います。昔はどこの家庭も生きることに大変でしたが、人を思いやる心は今よりあったと思います。人を思う心を育てていきたいですね。
投稿: せなじい | 2009年5月18日 (月) 15時18分