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2009年4月 6日 (月)

英語教育の限界

どうして英語を学ぶのかを知っている中学生は少ない。我が塾の生徒は、日本が第二次世界大戦でアメリカに負けたからだと主張するものがいたりして、時に笑わしてくれる。

はっきり言ってしまえば、高校入試の必修科目だから勉強をしているわけで、中学校英語の教育でバイリンガルが育つわけでもないし、日常会話が英語で出来る中学生が誕生する分けでもない。そんな当たり前のことを皆分かっていながら、日本の英語教育は、まるでそのような生徒を育てでもいるかのような高尚な教育目標を掲げているが、次元が違う気がする。

ちなみに中学校時代英語が5を取っていた同級生が、今現在英語がぺらぺらかと言ったら決してそんなことはないなだろう。逆に中3の時に英語2をもらった私が、こうやって英語教師をやり、適当な日常英会話をやっている(・・・笑い)状況を考えると、英語はやっぱり実務教科だと私は思う。

我が塾には英語が出来ない生徒達が毎年多く入ってくる。できないと言うより受け付けないようだ。いくらやっても100点中20点しか取れない。そんな生徒の共通点を模索してみると国語力不足からくる言語感覚のアンテナが伸びてない。

誰が何をする。何がどうした。なぜこうした。などなどの基本構造が日本語であいまいになっている場合がある。日本語の作文さえまともに書けない生徒に英作文などできるはずもなく、本末転倒をしている感がする。

何度も何度も繰り返しこのブログで述べてきたが、日本人は語学教育のためにどれほどの時間とお金とそして労力を費やしてきただろうか。大学入試に英語がある限り英語産業は塾を含めきっと存続し続けるだろうし、外国人のいる英会話教室はなくなることはないだろうと思う。

私が生徒に聞かれることの第1位は「どうして塾の先生になったの」であるが、第2は「どうして英語が出来るようになったの」という質問である。英語をものにしようと思った理由はとても単純でシンプルである。

中学校時代の英語教師に、英語が出来ないことで散々からかわれ馬鹿にされたことを、見返してやりたかっただけである。「英語が出来ることがそんなに偉いことなのか」私は怒りに近い感情を当時の英語教師に抱いていた。

歌をうたう能力。走る能力。計算する能力。友達を思いやる優しさ。人はいっぱい素晴らしい能力を持っている。それでいんじゃないだろうか。

英語が出来なくて学校さえいけない気持にさいなまれる中学生がときにいる。入試の必修科目だからという理由だけで、親御さんも慌てて塾に連れてくるのだが、私は英語が出来ない個性を持った生徒さんがやってきたなと思うし、実際そうなのである。

出来ない個性なのだから、必ずものすごい長所を備えているはずである。それを見つけてやれば、英語が出来ない問題などはなんでもない。

英語教育の限界は、英語が出来るようにすることにあるのではなく、英語の必要性が日本人に心から理解されていないところにあると私は感じている。

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