家族の風景
塾の仕事を終え、国道沿いのとあるラーメン屋さんに入った時のことである。カウンターに座った私に、異様とも思える光景が飛び込んできた。
テーブル席に座っている家族が全員言葉を発することなくうつむいているのである。まるでお通夜の会場で悲しみにくれる遺族のような風景である。何事かと思い目を凝らして見ると、父親も母親も、そして高校生らしき二人の息子達も、小学校ぐらいの女の子も、全員がそれぞれケータイのメール打ちに没頭しているのである。
実は先日の日曜日、卒塾生の離散会をやった。カラオケ大会をやったのだが、高校合格後全員がケータイを買ってもらい、ケータイデビューを果たした生徒が多かったようで、カラオケなんかなんのその、お互いのアドレスを交換した後は、みんなうつむいてメールの打ち込みに必死だった。ふと先日のラーメン屋さんの家族の姿を思い出してしまった。
合格を果たし、卒塾して行った子ども達、それも合格祝賀会のカラオケの席で、ケータイのマナーについて苦言を呈する場の雰囲気でもなかったので、とりあえず私は何も言わなかったが、色々考えさせられた離散会だった。
私はケータイの存在が、日本人の精神性のある部分を崩壊させてしまった気がしてならない。そのある部分とは相手の存在を気遣う精神性である。
私がよく行く市内ジャズ喫茶『モリソン』のマスターの小原さんが、私がケータイを持ち歩かない人間だと知るや否や、「店に来るお客さんでかねごんさんのようにケータイを持たない人がもう一人いますよ」と微笑んできた。誰かと言うとジャズ喫茶『ベーシー』の菅原さんだった。ちなみにモリソンのマスターもケータイは持っていない。
ジャズをこよなく愛するベーシーのマスターもモリソンのマスターも、気配りの人間である。店にいるからケータイは必要ないと言うけれども、彼等の交友関係は実に多彩である。私が勝手に想像することだけれど、芸術的な音色を奏でるスピーカーでジャズを日々聴いている人間には、あのケータイの呼び出し音が耐えられないのではないだろうか。そんな気がする。
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