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2009年2月 3日 (火)

教育の根底にあるものは・・・

旧約聖書のイザヤ書第四十六章、四節に『わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは創ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う』という神の言葉がある。

人間は年を取ると、体力が落ち、無理が利かなくなる。当然のことだが、人の役目になるどころか、人の世話になり生きる状況が生まれてくる。知力、体力、財力あるものが弱者を救い、援助する社会機構がなければ、おのずと老人や弱者は生きてはいけない。

私は教育の根底にあるものは、決して競争などではなく、いたわりであると思っている。

『世界不況』といわれる経済不況が押し寄せてきたが、私は視点を変えれば、一極に集中していた富が、グローバルに配分され始めてきた結果であると考えている。

今まで富を謳歌してきた欧米や日本という国が、発展途上の国々の多大な犠牲や貢献によって保たれてきたものだと考えている。地球上に住む人類すべてが、幸福に暮らす権利を有していることは言うまでもない。

貧困に喘ぐ国々を救うものは、決して恵みの感覚であげる援助金ではなく、自立支援を促す教育の援助である。自分達がなぜ食べるものがないのか、なぜ病気になって死んでいくのか、なぜ紛争が続くのか、なぜ・・・・の解決策を自らの哲学と、実践で切り開いていく叡智が必要なのである。

今の日本も同じである。他人を搾取して利益を得ようとする経済理念では、これからの時代は無理なような気がする。1000円のものを売って相手が1000円の代価にあった恩恵を得るのではなく、1500円や2000円の利益を得るようなものでなくては、お金と物が流通しなくなっていくのではないだろうか。

我々の塾も同じだと考えている。10000円の月謝を頂いて、10000円分の教科を教えるのは当たり前で、プラスアルファーが二倍も三倍もあってこそ、生徒や保護者のニーズにこたえられるのではないだろうか。

イザヤ書の『必ず負い、持ち運び、かつ救う』という神の言葉を代行するのは、言わずもがな我々人間である。

仕事がないのも、お金がないのも、学歴がないのも、結婚が出来ないのも、決して世の中のせいではない。思いと、信念と、言葉と、勇気が足りないだけだ。

相手に対するいたわりや、優しさが、言葉と行動になった時、学校で学んできたことがはじめて役に立つ。いくら難しい公式を覚えたって、知識を溜め込んだって、それがなければ言葉は悪いが単なる自慰行為だ。

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コメント

「私は教育の根底にあるものは、決して競争などではなく、いたわりであると思っている。」
この部分に深く共感します。生徒たちが望んでいるものは単なる知識やテクニックではなく、自分たちの成長を励まし気持ちを奮い立たせてくれる一言なのではないかと、このごろやっと確信するようになりました。

まったくうかつな話です。成績が上がるのは生徒のやる気が引き出されたからであり、モチベーションが上がったからなのであり、決して自分の指導技術なんぞの結果ではないのだと身にしみて感じるようになりました。彼らが私たちの所に通ってくるのは自分たちが変わりたいから、成長したいからなのだろうと思います。その気持ちを大事にして応援できたらいいなと思います。


(かねごん)
受験指導の追い込みの時期、多忙な中コメントありがとうございます。
小林先生がご指摘のとおり、指導の原点は真摯な言葉や思いの伝達であると思います。
学問の行き着くところの終点は、個々人の覚醒ではないかと最近考えるようになりました。そういう意味では、自分もまだまだだと思います。

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