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2008年12月

2008年12月31日 (水)

今年も終わりですね

とうとう今年も大晦日を迎えた。家の周りは真っ白な雪に覆われ、季節がら除夜の鐘を聞くにふさわしい風景である。

昨日は一日中塾生への年賀状をしたためていた。ゆえに元日には届かないかもしれないが、ご了承いただきたい。今日はこれから神棚の掃除と正月飾りを玄関等に付け、お年神様を迎える準備をする。今年お供えするお神酒は、宮城県栗原市金成町有壁の『萩の鶴』である。この酒がうまい。痛風でなければ浴びるほど飲みたい酒であるが、お猪口で我慢しよう・・・・。

話は飛ぶのであるが、教育ブログランキング塾予備校部門で、このわくわく日記が今年最高位の15位まであがった。高校受験ブログではなんと驚異の6位である。先日冬期講習で、塾生たちに来年は目標ベスト3なので、よろしく頼むよと声かけをした結果だと思いきや、ほとんどが岩手県からのアクセスではなかった。

あれだけの宿題を私から出されれば、インターネットどころではなかっただろうから、あたり前と言えばあたり前である。と言うことは、私の見も知らない方々が、読んでいただき、一票を投じていていただいているわけで、感謝である。

我が塾の社長である家内より、「そんな順位なんてどうだっていんじゃないの」と、とても心優しいお声をかけていただくのであるが(・・笑い)。年齢だけは50に近づいても、精神年齢はまだまだ子どものままの私は、実は結構嬉しかったりするのである。

と言うことで、本年は本当にこの拙い私のブログにお付き合い頂いてありがとうございました。1年間365回の更新を何とか達成することが出来ました。皆さんに読んで頂いたからこそ書き続けてこれた日記だと思っています。

どうぞ来年も『大験セミナーわくわく日記』をよろしくお願いいたします。良いお年を。

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2008年12月30日 (火)

一生懸命働くということ

年の瀬になると、今年天に召された方々の追悼記事の特集が載るが、今年も眺めて見ると、世の中に貢献をし、すばらしい才能を放った多くの方々が他界された。

医療や生活改善に伴い、日本人の平均寿命は戦後飛躍的に延びた。70歳を超え、80歳になり、近隣を見渡せば90歳のお年寄りが珍しくなくなった。私なども日本人の平均寿命を考えると後30年近く生きることになるのだが、残念ながら昭和30年代生まれは、それほど長生きが出来ないような気がする。

肉体的、精神的疲労もさることながら、今のご老人が生きてきた働き盛りの時代と比べると、ストレスの質が違うような気がする。かつては貧困からの脱却が大きな希望だった。とにかく働くことでそれぞれの夢に間違いなく近づくことが出来た時代だ。仕事があることがありがたいことだった。仕事に対して感謝があった時代だったように思う。

我々の世代はどうだろうか。生活を維持することに奔走し、自分の労働の見返りが少なければ、会社や世の中のせいにし、働くことに感謝が湧かない、そんな日々じゃないだろうか。食べ物にしても、インスタントや添加物の嵐を潜り抜けてきた世代である。そんな我々が将来今の平均寿命をキープできるとは思わない。

命というものは当たり前のことだが、しみじみ大切なものである。命の尊さに優劣はない。子ども達は見た目や学力などで人間の価値を判断しがちであるが、競争社会が生み出した弊害に、いつの時代か我々人間は終止符を打たなければならない。

『自分は愛されている人間だ』 『自分を必要としている人間がいる』 そんな思いを失わない人間が人生で頑張られる気がする。世の中に貢献し続け天寿をまっとうして行った人は、決して特別な人間ではない。我々が長生きできない世代なら、私達なりの行き方がある。

我々は戦後の世代で、貧しさとは何なのかを実体験で学んできた最後の世代である。ゆえに今、貧困という経済格差に苦しむ親世代や若者世代に、伝える義務があると考えている。なぜ人は一生懸命勉強し、一生懸命働かなければならないかを。

今年11月30日、日本発の実力派ハードロックバンドとして世界を舞台に活躍したLOUDNESSのドラマー樋口宗孝さんが肝細胞癌のため亡くなった。49歳だった。同じ世代の早すぎた死に、心からご冥福を申しあげる。

樋口さんのドラムはすごかったな~。そう言えば彼のドラムが好きだった教え子が昔いたな。今はどうしているだろうか。

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2008年12月29日 (月)

父親の気持ち

今日が今年の塾の仕事おさめであった。塾生の男子生徒がたこ焼きを買ってきてくれた。おいしかった。明日から休みということもあって、塾内もなんとなくそぞろ神が闊歩するような感じで、年末のあわただしさの中、合格祈願の神棚のしめ縄を新しくし、正月飾りを塾の玄関に飾り自宅に帰ってきた。

今年中に私がするべきことは、年賀状書きと、神社に行って正月飾りを頂いてくることと、家の掃除である。おっと忘れていた餅つきも大事な年末の大仕事である。

夜中1時就寝、6時30分起床が続いていたが、明日だけは少し朝寝坊をさせてもらおうかなと思っている。

昨夜は塾の仕事が終わった後、神社の総代会があり、神社に飾る大きなしめ縄を作った。お年寄りの縄を編んでいく熟練の技にただただ感心していた私であったが、ふと周りを見渡すと、彼等が引退の後は、私達がしめ縄を作らなければならない世代なのだが、わらじを編むことさえ出来ない私が、巨大なしめ縄を編めるわけもなく、これは早急に技術を伝授してもらわなければと、あせった私であった。

後二日で今年も終わる。こんな曲を聞きながらしんみりと年を越すのもいいかもしれない。

エリック・クラプトンの『Tears in Heven』である。子を思う父親の気持ちが痛いほど心にしみわたる曲である。

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2008年12月28日 (日)

どうして塾の先生になったの パート2

なぜかこの多忙な時期になると尋ねられる質問がある。昨日も冬期講習を受講している生徒より、「先生どうして塾の先生になったの?」と不意に質問を浴びた。

実は過去のブログでこの質問に対する回答をしたためている。興味のある方はご覧頂きたい。http://daiken.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_9dcb.html

私の塾の生徒には、親御さんが学校の先生という塾生も何人かいる。きっと家庭でも塾の先生という職業に対して何らかの話題が出ているのかも知れない。

「どうして塾の先生になったの」と、聞いてくる中学生や高校生の質問の意図を私なりに分析してみると、その1、どうして学校の先生にならなかったの、というニュアンスが感じ取れるし、その2、そのマルチ能力を塾じゃなくて別なところで生かせなかったの?というカジュアルなレスペクトとも受け取れる(・・笑い)意味合いも感じ取れる。

昨日私が発した回答は、「お金になると思ったからなったけど、大いなる勘違いだった」というもので、生徒はとりあえず笑ってくれたが、子ども達なりに、大人の仕事って大変なんだな~と思っているのかもしれない。

寺子屋を営む私には、ひょっとすると祖先の血が流れているのかも知れない。私は代々百姓をやってきた農家の18代目である。江戸時代には藩より人足肝入りを命じられた本百姓であったが、種々の理由から明治の中頃没落してしまった。かつての山林や耕作地は借金のかたに無くなってしまい、私の祖父は大変な苦労を背負って生きてきた人だった。祖父はそのことが幼少期のトラウマになっていたようで、小さい頃何度も私に話してくれた。

明治の学制が施行されるまで、我が家では自宅を開放し寺子屋を営んでいた。藩が出した当時の寺子屋の住所録を見ると、我が家の屋号が載っていないので、きっともぐりの寺子屋だったのだろう。

私が住んでいる地域の長老の方は、私が塾を営んでいると言うと、「あんだのうちは、むがし寺子屋をやってたから血筋だべ~」と言ってくれる。やっぱり私は寺子屋気質の塾教師なのかも知れない・・・・。

種々の塾教会には一切加盟していない私の塾は、将来私の子孫に、同じようにもぐりの塾と言われるかも知れないな・・・・

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大空と大地の中で

街の中を車で運転している時に、何気ない風景が導火線になって、若い頃のほろ苦い思い出があふれ出してくることがある。

今日のような吹雪く日には、北国の哀愁が染込んできて、舞い降りる雪に過去のいろんな出来事が走馬灯のようによみがえる。自分が父親になってから『大空と大地の中で』を何度歌っただろうか。

「生きることがつらいとか、苦しいだとか言う前に野に育つ花ならば力の限り生きてやれ」この歌詞に、私は何度人生で救われただろうか。

北の大地に住むものにとって、冬の厳しさは大変だけれども、でも私は冬が好きである。

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2008年12月27日 (土)

赤ひげタイムズ

冬休みに入ると同時に、県内は大雪に見舞われた。一面の銀世界である。冬期講習が始まって、朝9時より夜9時半まで仕事漬けの疲労した目にはまぶしい雪景色である。

雪がなく開店休業状態だったスキー場もホット一息であることだろう。

夕方冬期講習を終えた中三生達が、教室の前で雪合戦にこうじていた。犬のようにはしゃぎ回っていたが、さすが15歳、彼等の体力には脱帽である。

かなりの宿題を出したつもりだったが、やけくその雪合戦だったのだろうか、気になるところである・・・・・。

まったく話は変わるのであるが、このブログを始める昔々、『赤ひげタイムズ』なる塾報を不定期に出していた。私や講師の先生方が書くコラムのようなものである。もちろん黒沢監督作品『赤ひげ』の映画のタイトルからパクッたネーミングである。

実は私のはやしている赤ひげにちなんだものではなく、あるエピソードに感動してつけた名前だった。赤ひげ先生の診療所に於いて、背景に薬棚が映画の画面に写るのであるが、なんとその薬棚には、本物の漢方薬を入れて置いたというのである。

その戸棚は、決して映画の中で開けられることがないのにである。目に見えない存在感と言うやつである。我々塾教師にも言えることではないだろうか。決して指導で使うことのない知識でも、あったほうがいい知識教養、そして内面性というものはあるものだ。

そしてそれは間違いなく受験生にも言える。学校で習わないから、教科書に載ってないからといって、知らなくていいと言う理由にならないこともある。ゆめゆめ忘れてはならない。

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2008年12月26日 (金)

日本国憲法 第25条

4,5日のブログ休息宣言をしたのだが、塾生より「先生せっかく毎日更新してきたのだから今年最後まで頑張ろうよ」と言うことで、休息宣言を撤回し、今日も書き連ねることにする

日本国憲法 第25条(生存権、国の社会的使命)

すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

私はこの日本国憲法第25条は、我々日本国民が生きて行くうえで、とても根源的で、生活を支える国の大切な理念であると思っている。その根本理念が今崩れようとしてしまっている。

この日本の経済が、第2次産業の衰退により未曾有の危機に瀕している。サービス業を中心とする第3次産業への労働人口の潮流が、日本経済の基盤の弱体化を誘発したことは間違いない。右のものを左に動かすことで得る財源にはおのずと限界がやって来る。

そのさいたるものが、株取引や石油や穀物等の先物取引に耽溺するマネーゲームである。もの作りをしなくなった日本、それは歌を忘れたカナリヤのごとく、世界に於いて魅力を失っていく。

4,5日ブログを休むつもりであったが、どうも歳末の日本の風景を見ていると、のんびり寝ている場合ではないと思いつつ、休息宣言を撤回してこうやってまたブログをしたためている。

今月に入って、政治家に対する痛烈な批判を述べてきたが、それには大いなる理由がある。私は、今後とも派遣社員や正社員に対する雇用打ち切りの企業の暴挙が続けば、ヨーロッパの国々のように日本でも暴動が起こるような気がしてならない。それほど雇用不安は働く人たちの感情を逆なでし、我慢の限界が近づいている。

政治家の方々は、自分の党の存続の心配をしている場合ではない。総選挙の前に、仕事がなくなり生活に窮する方々に救済の手を差し伸べなければならない。それが急務である。

大学に行きたくとも、行けない優秀な人材が途方に暮れている。遊ぶ能力だけは達者な金持ちのボンボンが、外車を乗り回し学生生活をエンジョイしている。これではいけないのである。

私たち塾教師は、おそらく学校の先生方よりも、もちろん政治家の皆さんよりも、親御さん方の経済力の困窮による、子どもの教育への影響を目の当たりにしている。その実状はとても辛いものがある。文化的な最低限度の生活を営む権利を、親のリストラのために子ども達から奪ってはいけない。

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2008年12月25日 (木)

ちょっとお休みします

今日から冬期講習に突入です。ゆえに仮眠をしに家に帰ってくる日常が始まります。12月29日までブログの更新をお休みいたします。ご了承ください。

尚、12月29日より1月4日までは、通常のゼミはお休みになります。冬期講習のため、冬休みの間の通常ゼミは午後3時45分からのスタートとなります。よろしくお願いいたします。

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2008年12月24日 (水)

クリスマスソング

朝はうっすらと雪化粧、クリスマスらしい景色でした。今日は私の好きなクリスマスソングを皆さんにプレゼントします。

 『恋人達のクリスマス』♪

ナザレン教会『きよしこの夜』

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『ラスト・クリスマス』♪

8年ぶりの忘年会

先週の日曜日の夜は、我が塾の忘年会であった。私を含め4名のこじんまりした忘年会であったが、塾の忘年会をやったのは8年振りである。多忙だったことがやらなかった理由と言えば理由だが、今年は8年ぶりに高3生が在籍しておらず、論文指導もセンター試験の直前対策も必要がなく、のんびりと日曜の夕方、忘年会が出来たのである。

我々が初々しき高校生(?)だった頃と比べると、日本の大学の数は2倍近くに増えた。そして生徒数は半分以下になった。選ばなければ全入の時代に大学入試は突入したと言っても過言ではない。

「お金さえあれば大学は入れる」、こう言い切る親御さんも多い。確かに私立大学は学生が欲しくてたまらない。推薦枠を最大限に増やし、生徒募集に血眼になっている。通信簿と面接だけの受験、それを連発すれば大学の質そのものが低下していくのは目に見えている。しかし経営難のため来るもの拒まずの状況になっているが現実だ。

かつて20年前、我が塾は大学受験専門の英語塾として産声をあげた。バブル崩壊後、国立大志向が加速し、大学入試における英語のウエイトが希薄になり、我が塾の大学受験英語専門塾としての役割は13年前に終焉した。今は高校入試全教科指導の集団個別指導塾として皆様から認知されている。

現在、市内の進学校以外からの高校から私大を受験する生徒は、9割が推薦枠で受験をしている。かつてのような難関な長文読解も文法理論も必要ないと言えば必要ない。ゆえに市内の高校生の通塾率は、バブルの頃から見ると3分の1の数になっている。ゆえに我が塾でもかつて7割を占めていた高校生が、現在は全体の1割ほどになった。

地方の経済の衰退とともに、浪人離れも加速している。仙台や盛岡などの大手予備校も撤退を余儀なくされたところが多い。国公立に受からなければ、就職や資格を取るための専門学校にいく生徒が増えている。

地方から東京の私立大学に入れば、生活費を含め4年間で1000万円はかかる。お父さん方の平均年収が300万円と言われる地方に於いて、容易に捻出できるお金ではない。

「お金さえあれば大学は入れる」と語る親御さんの思いは、重い。

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2008年12月23日 (火)

これで反対意見は最後にします

一関一高附属中学校の願書の受付が先週終了し、最終的な倍率が出た。2.8倍の倍率であった。大方の予想よりは低い倍率だったように思う。私も個人的には3.5倍ぐらいの倍率を予想していたが、ふたを開けてみれば世論に煽られることもなく、平静を保った受験志願なのではないだろうか。

昨年の秋に、一関一高附属中学校開設に対する私見をブログにしたためて以来、私見に対して2000件近いアクセスを頂いた。読まれた方はご存知だと思うが、附属設立に対する反対意見を述べさせて頂いた。当初批判のメール等も頂いたが、学校行事やPTA等の会合に於いて、私のブログに対する賛同の意見もだいぶ頂戴した。

一高附属の設立発表時の新聞には、医者や弁護士を世に送り出す英才教育を目指す、などの文字が飛び交い世論をだいぶ煽ったが、度重なる説明会ではそのようなトーンは陰をひそめ、優秀な人材の育成と言うような表現に変わった。

一関一高の卒業生の職業を見ると、圧倒的に目に付くのが学校の教師である。私の母校でもない学校に対してとやかく言う立場ではないが、今まで延べ200名ほどの塾生が一高に入学して行った。教員になっている卒塾生も多い。昨年の秋に書いた内容と重複するのだが、ここでもう一度私の反対の論旨を述べてみたい。

勉強というものはさまざまな負荷がかけられ、そのストレスや軋轢さえも学びとなる。勉強をバカにするもの、家庭の価値観が違うゆえの友人に対する苦悩、人間はそういった経験を経て成長をして行くものだ。

入試によって選別された一定のレベル以上の子ども達が、切磋琢磨する姿は確かに理想的な姿かもしれない。授業をボイコットするも者や、先生に暴言を吐く者もいないだろう。しかしそこにこそ、ある種の問題が隠されている。

将来教員をはじめとして、社会のリーダー的存在を目指す人材が、温室のような(表現が適切ではないかも知れないが・・・)環境で、まじめな素直な子ども達だけの集団の中で、真のリーダーシップを学んでいけるのだろうか。

今の日本を見て欲しい、かつての安部首相も、現在の麻生首相も優秀な大学を出られているが、はっきり言ってお坊ちゃま大学の秀才方である。庶民感覚はまったくない。政治学のエリート教育が笑ってしまう。かつて田中角栄は中卒で、首相にのし上った苦労人であった。汚職という悲しむべき首謀者の汚名を着せられた政治家であったが、実行力と国民の繁栄を考えた政治手腕は今でも評価されている。

現在東京都に於いて、公立の中学校が荒れている原因に、リーダーとなる中学生が不在であることが指摘されている。学力に於いても運動能力に於いても優秀な人材は私立に流れていく。その本流をとめることは誰も出来ない。しかしその代償として、格差社会が蔓延して行った。

東京や千葉では公立の先生方の離職者が増えている。私立や進学校で学んできた先生方が、自分の価値観を揺さぶられる子ども達に対応できないのである。また教員採用倍率も3倍に満たない関東地区の都道府県もでてきた。今回の一高付属の倍率よりも低いのである。先生というかつての聖職が、この状況になったのは、児童に対する学力と言う名の非情な選別が、経済力と言うモンスターを暗黙のうちに子ども達の心の中に刷り込ませた代償であると私は考えている。

そういった悪習を10万ちょっとの田舎町にもたらす必要はないのである。これが私の附属設立に対する反対論旨だった。しかし来月の入試を皮切りに、一高附属はスタートする。塾教師として傍観ばかりを決め込むわけにはいかない。反対意見はこれで最後にさせていただく。開校し船出をする一関一高附属中学校に対して、塾としてできること、やらねばいけないことを今後世の中の動向を見据え、対応して行くつもりである。

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2008年12月22日 (月)

ハローワークでの麻生さん

ハローワークに求職に来ていた若者と対面していた麻生首相の表情を見ていて、日本の政治家の非情さを実感してしまった。

困っている人を「しょうがないな~」という目線でしか見れないお役人の態度が、今の日本を活気のない日本にしてしまったと私は思っている。他人の痛みを理解できないボンボン育ちの方々が、雨後の竹の子のように国会に登場し、自らの利権争いと権力の保身に奔走する彼等を見ていて、やるせない気持ちだ。

私もかつてハローワークにお世話になったことが何度かある。当時は職業安定所という呼称であったが、今と違って担当官の態度が大柄で、ため息が出たのを覚えている。「何で仕事やめたの?」 「何か資格あるの?」そんな質問をされたのを記憶しているが、失業保険を需給してもらうことが、犯罪でもあるかのような感じを与えられる対応だった。

今はどうかと言うと、ハローワークに25年間前のような担当官は一人もいない。見ているとやって来る失業者の方々に、本当に親身になって対応している。紹介してあげる仕事がないことにあやっまている担当者さえいる。時代の変遷を感じる。

そんなハローワークにやってきた麻生さんの発言に、相談にのってもらった失業中の若者は、「目的意識を持ってといわれても・・・・」と言葉をにごしていたが、本当に仕事がないのである。私の住む町でも有効求人倍率は0.8倍ほどである。選ぶにも仕事がない。

私の塾にも求人の電話がたまに来る。現在は講師が足りている状況なのでお断りするしかないのだが、「1時間、2時間のバイトでもいいですので」などという声を聞くと、対応している私も胸が詰まる思いだ。

都会に若者は出て行く。夢を求め、自分の才能を信じて。しかし競争社会のルールは時に非情である。資本を持つものが、努力という才能を蹴散らしてしまう事だってある。それでも尚努力と誠実さは、社会を生き抜いていくツールであると私は信じている。

お金持ちしか政治家になれない日本という国を眺めていて、この国がどこに向かおうとしているのか不安な方も多いだろうけれど、個人が何とか自力で生き抜いていくすべを見つけなければならないのは確かなようだ。

歳末である。先日小学校の読み聞かせで、ボランティアのお母さんが『マッチ売りの少女』のお話を児童たちにしていたが、遠い国の昔の話とは思えない切実感を持ったのは私だけだったろうか・・・・・。

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2008年12月21日 (日)

この一年を振り返って

この時期、『この一年を振り返って』という特集記事が週刊誌や月刊誌をにぎわしている。今年もあと10日ほどで終わりである。今年も多くの感動があり、また痛ましい事件も多かった。

私個人的には、大病をすることもなく、持病の痛風の発作も夏の2回の発作ですみ、なんとか塾の仕事も休むことなく過ごせたことに感謝の気持ちで一杯である。

今年一年ブログを通じ、教育問題にはさまざまな提言をさせて頂いたが、今年一番ショッキングだったのは、大分県の教員採用不正事件である。自分の子どもをお金とコネの力で教師にしようとした校長の愚弄もさることながら、大分県採用の半分以上の先生が不正採用だったという事実には、開いた口がふさがらなかった。

日頃努力が大切だよと言っている学校の先生の言葉を、これほどまでに、ないがしろにしてしまった今回の事件は本当にひどかった。

もう一つは秋葉原の無差別殺人の事件である。事件の残虐さもさることながら、青森の進学高校を出た若者が、派遣社員という待遇のなか、自らの不幸を、他人を殺傷することでうさばらしをしようとした行為は、あまりにも短絡的で、現代の若者達の心の闇を垣間見た事件であった。

この事件を模倣する事件がその後いくつか起きたが、人間の命の尊厳を子ども達に教えることが本当に急務であり、人間をなぜ殺してはいけないのかと言うあまりにも当たり前すぎる命題を、あえて提示しなければならない悲しみを、多くの方が感じたに違いない。

人間を人間たらしめているもの、それは教育である。世の中がおかしくなっているとしたならば、それは教育がおかしくなっているのである。自分のように塾を営む人間にとっても、常に子ども達の動向は気になる。この25年間で変わったものがあるとしたら、家庭の経済格差が、徐々に教育格差を生み出し、その責任を常に社会のせいにする人間が増えたことではないだろうか。

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2008年12月20日 (土)

賢治がやりたかった教育

賢治は花巻農学校で教鞭をとったが、彼の教師としての才能を評価する人はとても多い。

裕福な家に生まれ育ったことにコンプレックスを持つ彼の感性は、教師向きではないと評する賢治研究者もいるが、純粋に農業の未来を考え、後継者を育成しようとした賢治の姿は痛々しいほどに伝わってくる。

岩手の過酷な農村の実状を、まるで自分の悲しみのように受け止め奔走する賢治。風のごとく人生を走り抜けていった詩人、その生涯は決して幸福なものではなかった。

彼の人生の中で一番穏やかな風が吹き、陽だまりのような安らぎを感じたのが、農学校時代の四年間だったのではないだろうか。生徒達と田んぼに出かけ、山に登り、そして演劇をやり、土壌改良に情熱を注いだ賢治の教師としての日々は、ほんとに幸福の日々だったに違いない。

その後羅須地人協会を自ら立ち上げた頃から、言い知れぬ孤独感を彼は抱いていく。彼が教師として教えたかったものは、純粋に農業に生きる人生のすばらしさであり、その芸術性だったような気がする。

もし宮澤賢治が、教師を続けることが出来ていたならば、後世に残る文学作品は生まれなかったかも知れないが、少なくとも人間として精神的に楽な人生を歩めた気がしてならない。

岩手県バージョン訛の賢治の詩の朗読をどうぞお聞きください。

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2008年12月19日 (金)

夜明け前は一番暗い

いつも思うことですが、人間の人生はまさに四季そのものです。ビバルディーの曲『春』のごとく、花開き風薫る季節があれば、寒風吹きすさぶ冬の季節もあります。寒い季節があるからこそ、春の芽吹きはやってきます。人生も同じではないでしょうか。

日本の経済はまさに冬の時代です。国の借金もさることながら、主要産業も弱体化し、雇用状況も不安定極まりない状況です。日本の伝統的雇用制度であった終身雇用が崩壊し、実力主義とは名ばかりの企業ご都合主義の雇用体制が確立されてしまいました。

確かに派遣社員に対する、卑劣な解雇処分は許されるものではありませんが、派遣という雇用体制になんら対策を講じないまま野放しにしてきた国の責任も大きいものと考えます。

派遣によって、確かに雇用の拡大が伸びたのは事実です。正社員の雇用は大変だけれど、忙しいときの季節労働や臨時採用ならばOKという企業が増えました。しかし正社員と同じ労働を提供しても給料が低い、福利厚生が受けられない等の、生活格差が広がったことは否定できません。

私は近年の派遣社員制度を見ていて、昭和30年代の農村部の出稼ぎを思いだしました。東北や北陸地方の農村のお父さん方が、仕事とお金を求め都会へと集結しました。私の父親もその一人でした。日雇いや季節労働ですから、はじめから安定などは期待していません。さまざまな人脈やコネを利用して次から次へと仕事を渡り歩きます。学歴はありませんでしたが、生活の知恵と生きるパワーがありました。

現在はどうでしょうか、仕事がないと言うよりは、責任を負いたくないという人間が増えているような気がしてなりません。結婚をして家庭を持つのも、社員になって時間や生活すべてが仕事中心になるのも、あまり気が進まないという若者の声を多く聞きます。

あまり使いたくない表現ですが、自己責任という問題も多く含んでいると思います。派遣社員の方々は、自分が正規雇用ではなく臨時であることを自覚していなっかたはずはありません。失礼な表現ですが、週末に居酒屋で会社の愚痴を言っている暇や、パチンコでうさばらしをする暇があるならば、自分のスキルアップのために、資格を得るための勉強をするなり、仕事のリサーチをするなり、打つ手段はあったはずです。そうではないでしょうか。

私たちの塾業界など、派遣社員ほどの雇用安定さえもありません。塾生が減ればすぐ人員整理ですし、保護者のクレームが続けば即解雇です。ゆえに塾教師であることに胡坐(あぐら)をかいているものは、淘汰されることはあれ、キャリアとして存続することは出来ません。

雇用に対する暗い話しばかりしてきましたが、光明もあります。夜明け前は一番暗いと言うことです。原油価格が安定したと思いきや、急激な円高で四苦八苦の日本経済ですが、ここがどん底と思えば、これからは必ずや努力が報われる時代が来るはずです。

自分の辛さを責任転換しない生き方が今求められているように思います。

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2008年12月18日 (木)

お金の光と影

子ども達を指導していて一番気がかりなのは、もちろん現在の成績や受験に向けての塾生の勉強の取り組み方ですが、将来の職業観に対する子ども達の考え方もとても気になるところです。

中学生などは、友達の家の経済力などに実に敏感です。何万円もするブランド品の財布を持っていたり、数万円もするバーバリーのオーバーを着ていたりしますと、質問の嵐が教室で飛び交います。「おとうさん何やってるの?」 「社長なの?」等々です。

学校というところは、制服や運動着にしても持ち物にしても統一されていますので、経済的格差は表面的には現れないかも知れませんが、やはり親御さんの乗っている車や遊びに行った自宅を見れば、子どもながらにも分かるものです。

私の下の息子も、中学校に私の軽トラックで送っていこうとしますと、「え、軽トラックで」という顔をします。私の軽トラックを瞬時に魔法でベンツやセドリックに替えることは出来ませんので、しぶしぶ乗っては行きますが、子どもとはそういうものだと思います。

当たり前に帰る家があり、三食たべられる生活が出来ることは、実は地球上に住んでいる人類の10分の1だけが享受できる幸せです。その恩恵のほとんどを我々日本人は享受する生活を送っています。

しかしその状況も変わりつつあります。職を失い、家もなく彷徨い始める日本人が徐々に増えてきています。昨年話題になったネットカフェ難民どころか、路上生活を余儀なくされる若者の姿が大都市を中心に確実にその数を増しています。

故郷に帰りたくとも帰る家がなく、仕事がないのでお金もなくアパートも借りられず野宿をする日常が突然やってきます。それが理不尽な解雇が生み出す悲劇です。

ケータイやパソコンや高級車やさまざまな便利なものが世の中にあふれています。大人になると必ずパラダイスな世界が待っている幻想を今の子ども達は持っているようですが、その代価として労働をしてお金を捻出しなければならない日常がやってくることを、子ども達はあまり理解していないようです。

高校生の風紀に反する、勉強に支障が出るということで、県内のほとんどの公立高校はバイトを禁じています。このブログでも一度主張したことですが、自分の生きてきた経験も踏まえて、私はバイト奨励派です。長男にも高一の時から直接学校の許可を得て、バイトを許してきました。息子達には決まった小遣いというものをあげていません。長男は高三の末に自動車免許を取得しましたが、教習所のお金は自分で捻出しました。私は一銭も出していません。今現在も、理系の研究等があって忙しいようですが、週5日のバイトを続けています。

もちろん10代後半の学生の本業は勉強ですが、お金のありがたみや、お金を得ることの大変さを学ぶ時期としても大切な年頃のような気がします。ケータイ代を親からもらっている中学生にしても、一万円というお金を得ることがどれだけ大変なことなのかを、親御さんはしっかりお子さんに教えなければならないと思います。

派遣社員制度を批判する世論が高まっていますが、お金の大切さを子ども達にしっかり教えてこなかった今の若者世代の親世代の責任も大きいような気がします。10万ちょっとの手取りしかない若者が、400万円も500万円もする自動車に乗っている姿を見て、私はそのことを実感します。

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ゴメンナサイという時はあります・・・・

タバコも吸わず、酒も飲まず、肉も食べない私は、会合等に出ると、不思議な人間を見るような視線を感じてしまい、ちょっとドギマギしてしまいます。何か宗教をやっているのですか、そんな感じの視線なのです。痛風と高血圧と血糖値が高めなので、食事制限を余儀なくされている私は、はっきり言って忘年会にはミスマッチな存在のようです。

ゆえに赤提灯の暖簾をくぐることは最近はほとんどなく、生徒が早く帰った夜はジャズが聴けるお店に行ってコーヒーを飲んでいます。

最近行きつけのマスターにおもしろいお話を伺いました。とても人当たりがよく修行僧のような人格を兼ね備えたご主人なのですが、お店のドアを開けて入ってきた姿を見ただけで、このお客さんは無理!という時があるのだそうです。やくざの風貌であるとか、汚い格好とか、そういった見た目の問題ではなく、精神性というか霊的なものといったらよいのか、そんな感じなのだそうです。

実は私にもたまにあります。塾のパンフレットをもらいに来る方で、この人は厳しいな~という時があります。何度もこのブログでお伝えしてきましたが、私たちの仕事は子ども達を受験に合格させて何ぼの仕事です。本質的にはサービス業です。保護者の皆様のニーズにこたえることを忘れては、成り立たない仕事であると考えています。

しかしその覚悟ができていても、やっぱり無理という時があります。もちろん私は霊能者でも宇宙人でもありません(塾生はかねごん星人と呼んでいますが・・・)。何か憑依しているものが見えたりするわけではありませんが、すいませんゴメンナサイというときがあります。私自身も理由は明確に説明できないのですが、喫茶店のご主人の気持ちはよく分かります。

これが子どもとなると次元を超越します。最初から修羅場を想定していますから、何がやってきても驚きません。形式的な入塾テストこそあれ、私と同じ宇宙人だろうが(・・笑い)、天使だろうがOKです。最近は伊庄整体の伊藤先生のバックアップ体制も完璧ですし、命ある限り子ども達とはとことん向き合っていくつもりです。

ところで最近眼底疲労に苦しんでおりましたが、季節がら学校や塾の先生方も目の疲労は大変だろうと思います。ご養生くださいませ。

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2008年12月17日 (水)

抹茶とコーヒー

人生は山あり谷ありです。苦しみの時期もあれば喜びの時期もあります。私が学生の頃、ばんばひろふみさんの『SACHIKO』という曲がはやりました。♪幸せを数えたら片手でも足りる。不幸せ数えたら両手でもたりない♪という例の曲です。

今の時代聞きますとかなりブラックな歌詞ですが、当時は時代に共鳴したんでしょうね。

私も、これまでごく平凡な人生を送ってきましたが、それなりに辛いことや悲しいことはありました。なかなか超ポジティブになれない私は、やはりばんばさんの歌のように、どうしても辛さや悲しみを心に深く刻んでしまっているようです。

信じていた人からの、思いもよらない罵声の言葉に傷ついたこともあります。愛する人との別れもありました。理不尽な社会の制裁に歯軋りをしたこともあります。確かにそのように辛いこともあったのですが、年を取って振り返ってみますと、それらが多くの学びだったことが分かります。

私はクリスチャンではありませんが、学生の頃から聖書に親しみ、多くの啓発と気づきを学ばさせていただきました。そんな私が人を育てるという仕事を生業にした動機付けが、『人間には持って生まれたそれぞれの使命がある』という考え方です。

昨日のアリとキリギリスの話と重複しますが、人間の寿命も人間の能力もそれぞれに違います。劣っているとか、優れているという範疇で人間を見てしまうと、とても悲しい差別が生まれます。人間は努力は必要ですが、努力を否定される現実が多くあるのもまた事実です。

ほどほどに勉強をして60点の生徒と、死に物狂いで暗記した生徒の60点のテストは、評価的には同じものでしょうが、精神性はまったく違うものです。軽く流した人生をかっこよく捉える若者が多いようですが、必死さと言うものは時に大切な人間の営みであると思います。

話術がうまく、社会に錯綜する情報をうまく整理できる人間が今世の中で求められていますが、そんな人間だけが社会に求められあふれ出したら、正直つまらない世の中ではないでしょうか。ガンガンとジャズが流れるお店も時に感情が高ぶっていいものですが、静かな茶室で味わうお茶の一服もたまらない味わいがあります。

時代に即して自分を変えていく生き方もすばらしいと思いますが、かたくなまでに自分のスタイルを変えない生き方も私はすばらしいと思います。抹茶とコーヒーのどちらの飲み物が優れているのかを議論する人はあまりいないと思います。人間の個性もそのようなものではないでしょうか。

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2008年12月16日 (火)

アリとキリギリス

入試が気になってしょうがない受験生諸君に、アリとキリギリスのお話しをしてあげよう。その話は知ってるって? まあいいから耳を傾けてみてください。

アリさんは夏の暑い日、一生懸命えさ運びに精を出して働いておりました。キリギリスは夏の日差しがかげると木陰で一生懸命歌をうたっておりました。その歌声に森の動物達や木々さえも癒され、季節の風を感じ、楽しんでおりました。

一方アリさん達は、秋の気配を感じながら冬を越すための食糧をせっせと巣穴に運ぶ毎日でした。

秋が終わり冬がやって来ました。歌をうたい続けたキリギリスさんは自分の命をまっとうし、天国に行きました。そしてその朽ち果てたなきがらは、虫さんたちの食糧になりました。アリさん達はじっと冬を穴の中で、春の来るのを待って過ごします。・・・・おしまい。

かねごん脚色のアリとキリギリスでした。食糧を運ぶアリさんの仕事も、音楽を奏でるキリギリスさんの仕事もどちらもなくてはならない仕事であると思います。

絵を描いたり、歌をうたったり、スポーツをやることの価値と、英語や数学の勉強をすることの大切さを比較することは本来難しいことです。どちらも大切なものであり、時に世の中で、どちらも必要とされないことがあります。

入試の後の学校生活もそうです。学校で学ぶことのほとんどは、大学入試やある種の資格試験以外には、直接必要ではない知識かも知れません。

極論を言えば、大学に行かなくとも、資格がなくとも立派に人生を歩んでいけます。大学や大学院を出ても、生活力がない人はいっぱいいます。

命のスパ-ンがもともと違うアリさんとキリギリスさんを比べることが出来ないように、私たち人間の生きる使命もそれぞれに違いがあるように思います。努力したのにうまくいかなかったら、その努力は無駄だったのではなく、違う方向性を模索させてくれた、大切な努力だったのです。

私はアリさんの生き方も、キリギリスさんの生き方もすばらしいと思います。

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2008年12月14日 (日)

サンタライブ終了

今年も市内の小学校でのサンタライブが終了した。読み聞かせボランティア『お話しポケット』さんとのコラボで始まったこの企画も10年を迎えた。最初の私のサンタ姿を見た小学生はとうに成人を迎えている。

サンタの洋服もかなり年季が入ってきた。白ひげも、靴も、バンドもよれよれだ。10年の歳月の長さを感じる。

うちの塾に来ている小学生で、実は私がサンタで行っていることを気づいていない児童がいた。先日3年生になってぼちぼち気づいたらしいのだが、少なからず驚いていたようだ。まあ、塾の先生は何でもやるのである。

彼等が大人になった時、変なギター弾きのサンタが毎年12月に来ていたな~ぐらいの記憶にとどめていただければ、私も幸せである。

それにしてもサンタ役は実に楽しい、はじめは家内の要求ではじめたサンタライブであったが、完全に病み付きになってしまった。季節が12月でなければ、いろんな施設にも行ってみたいのだが、何せ塾も忙しい季節である。二箇所ぐらいが限界であろうかと思っている。

『お話しポケット』のために書き下ろした「カブトムシ」や「僕の夢」は私かねごんの代表作になってしまった。児童達が爆笑する中、必ず先生の方の中には涙して聞いてくれる先生がいる。思わず私自身もじ~んときてしまう。

突然ですが来年1月18日(日曜日)、市内「喫茶青空」さんにて、わたしかねごんのライブが決定した。マイクや電気を一切使わない、ギターand生声のブルースライブである。(詳細は後日また発表いたします。)

子ども達のところには、どんなプレゼントをもってサンタさんはやってくるのだろうか。クリスマスが待ち遠しい今日この頃だろう。

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村田兆治投手の奇跡

12月14日9時59分配信日刊スポーツ

<マスターズリーグ:東京2-6名古屋>◇13日◇千葉マリン
 元ロッテの村田兆治投手(59=日刊スポーツ評論家)が、約2年ぶりに140キロ台球を復活させた。名古屋戦の6回、東京の6番手で登板した同投手は、14球目に141キロを計測。
140キロ球も6球記録するなど、リーグ戦初開催の千葉マリンのファンを沸かせた。
試合は名古屋が6-2で東京を下し今季初勝利を挙げた。
 「マサカリ兆治」こと東京村田の140キロ剛球が2シーズンぶりに復活した。昨季は最速139キロで、6季続けてきた140キロ投球がストップ。限界説? もささやかれた。11月に59歳の誕生日を迎えたばかりで今季初登板。千葉マリンでのマスターズリーグ開催は初とあって1万7800人の観客が詰めかけた。村田の現役時代の本拠地は川崎球場で、新本拠地で投げるのは初めて。村田は「お客さんがいっぱい来てくれてうれしかった。調子が良かったのでスピードにこだわった」と意気込んだ。
 6回1死二塁で川又に140キロ球を連発すると、山田への3球目に141キロを計測。07年1月以来、約2年ぶりの大台超えだった。3安打2失点で敗戦投手となったが、26球のうち140キロ台球が7球も。
還暦(60歳)間近で衰えない体力は離島行脚のたまものだ。
 今夏は伊豆大島で離島の中学生の全国大会を開催した。来年はこの大会に国土交通大臣杯の「冠」がつく。
村田は「夢と希望を与え続けたい」と話した。

140キロというスピードはとんでもない速さだ。一流の現役プロ野球選手でも難しい。それを還暦が近づいた、村田さんは投げ込んでくる。信じられない。

人間は精進努力すれば、とんでもない力を宿し続けることを村田さんは、自らの身体で教えてくれている。ここ一週間眼底疲労でちょっと参っていたかねごんであるが、10歳も年上の先輩が現役で頑張っている姿に、負けてはいられない。

f。;・ll; 今うちの猫が私が打ち込んでいるキーボードを横取りして、勝手に足で猫文字を打ち込んで行った。どんな意味かは知らないが、きっと私の意見に賛同してくれているのだろう。

それにしても村田兆治おそるべしである。彼に勇気を与えられるお父さん方は、きっと私だけではないだろうと思う。本当にすごい!!

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勉強をしない理由を考えたことがありますか

私は小学校、中学校時代勉強をしなかったのだが、勉強をしなっかた理由というものがやっぱり私なりに存在している。一方高校時代はけっこう勉強したのだが、勉強した理由というのがそれなりにあった。

勉強出来ない理由は一杯あるだろうけれど、勉強しない理由は意外とシンプルな理由かも知れない。ちなみに子ども達を教えてきて気づいたことだが、勉強しないタイプの子どもにはある共通点がある。それは『勉強することをダサいことだと』思っている。

勉強することをカッコイイと思わない子は勉強をしない。

私は以前にも書いたが、小学校3年生の時に日本チャンピオンの長谷川選手の卓球の試合を見て、私は卓球をやろうと決心した。当時ダサいと言われていた卓球が私には超かっこよく見えた。イチロー選手にあこがれて野球を始めた小学生達とまったく同じ感覚だと思う。

かっこよく勉強をする人がいれば、きっとそれを真似て勉強をするだろうと思う。父親だったり、兄だったり、おじさんだったり、おじいちゃんだったり、従姉妹だったり、誰でもいい、こんなカッコイイ人になりたいな~というお手本があれば、子どもは勉強をする気がする。

昨今学校の先生や、塾の先生は残念ながらその対象にはなりづらいようだ。はっきり言ってカッコよくない(・・・笑い)。女子高生がハンサムな先生にあこがれて、どうでもいいことをわざわざ職員室まで聞きに行った時代は過去の遺物である。

努力タイプの秀才をあざ笑う傾向がある。困ったものだ。

ちなみに私が勉強をしなかったのは、勉強が楽しくなかったからだ。暗く淀んだイメージしかない。一方読書は楽しかった。自分の部屋にいながら、いろんな時代や世界、時に宇宙の果てまでも散策することが出来た。音楽とてそうである。

高校時代は、自分が東京の大学に進み好きな音楽を聴き、神田の古本街をあてもなく彷徨い、わけの分からない思索に耽ることを励みにして勉強をした気がする。実際はバイトと酒宴の日々に明け暮れてしまったわけだが、少なくともそれが勉強の原動力になってくれた。

中学三年生は、いよいよ最後の追い込みだ。さすがにまだ勉強がダサいと考えている受験生はいないだろうが、今、『勉強をしなければ』と思っている思いを、今後もずーと継続してもらいたい。人生をずーとかっこよく生きるためにも。

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2008年12月13日 (土)

名前の大切さ

今年最後の高校入試模擬試験である白ゆりテストが、先週の日曜日県下一斉に行われた。この冬の一番の冷え込みで路面がてかてかに凍り、この冬初めてスタットレスタイヤが本領を発揮した朝だった。

我が塾では中三生の7割が受けた。狭い教室ゆえ、臨時の机を二階に上げ、外の寒さとは裏腹に、生徒達の熱気であっという間に窓ガラスが曇った。

生徒達のテスト監督をしていて、あらためて気づいたことがある。答案用紙の名前の書き方である。問題用紙を開く前に丁寧に名前を書く者。問題を解き始めて、途中で書く者。最後に名前を書く者。そして名前をうっかり書き忘れて提出してしまう者。さまざまである。

今年もあとわずかで終わりであるが、私のこのブログで一番今年好評を得たのは9月2日に書いた『筆箱で分かる自己管理度』という記事であった。その日のアクセス数はぼちぼちだったが、公開後検索ワードで多くの方から訪問を受けた記事である。生徒の筆箱で、およその日常がみえてくるという記事であったが、興味のある方はどうぞご覧いただきたい。

実は筆箱より如実に生徒の力量が現れるのは間違いなく答案用紙にしたためられる生徒の名前である。字がきれいであるとか下手だとかは、まあそれぞれの個性としてあるわけだけれども、答案用紙に書かれた名前の勢いというのかオーラーというのかその答案の点数がほぼ予想がつくものである。

ひとつ確実に言えること、成績優秀者に崩し字で自分の名前を書くものはいない。読めないような字で自分の名前を書くものに成績優秀者はいない。このことに関しては、光が一秒間に30万キロメートル進む事実と同じくらい普遍的な事実である。

自分の名前を試験のように限られた時間のなかでしっかり書くということは、想像以上にかなりの精神性と鍛錬を必要とする。たかだか名前だと侮ってはいけない。意外と日常生活の中で名前を書くという行為は少ない。

自分の名前を心を込めて丁寧に書くということは、自分を大切にしている証である。一日一回心を込めて自分の名前を書いてみるのもいいかも知れない。

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2008年12月12日 (金)

チャゲさんおめでとう!

12月12日7時46分配信 オリコン

人気デュオ・CHAGE and ASKAのCHAGEが11日(木)付の自身のブログで「2008年11月28日、新宿で「LOVE」を歌っているときに、CHAGEは父親になりました。2672gの男の子です。母子共に健康でございます」と、50歳で男児を授かった喜びを綴っている。

私が大好きなチャゲさんに50歳にして男の子が誕生した。実に嬉しいかねごんである。この曲は学生時代、私が最後のライブで歌わせてもらった思い出の曲である。どうでもいいことであるが、この曲がはやっていた頃、今の家内と知り合った。

チャゲさんの恋花がようやく実を結んだ。心からおめでとうを言いたい。いや~実に嬉しい。

実は私が塾を始めて、最初に採用した先生が、チャゲさんの大学の2年後輩であった。大学名で採用を決めたわけではなかったが、岩手にいてなかなか彼の大学の後輩に会うことはない。

久しぶりに『ひとり咲き』を聴いた。これから市内の小学校にサンタライブをしに行ってくる。今日は気持ちよく歌えそうだ。

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顔は心の鏡

勉強が波に乗ってきた中学生は、いい顔になっている。美男子、美少女が塾にあふれてくると、合格率もうなぎ上りである。我が塾では受験を占う一つの目安になっている。

今年はどうかというと、やはりこの追い込みの時期に入って、思いっきり成績を上げてきた中三が何人かいる。彼等の目つきがいい、さわやかな鋭さがある。落ち着きが出てきて、自然と姿勢もいい。自信の表われであると思うが、勉強の調子のよさは見た目に表れる。驚くべしである。

四十までは親が創った顔、四十を過ぎてからは自分が創った顔という表現がよくされるが、確かに顔は心の鏡である。いい人生を送っている人はいい顔をしている。逆に言えば、浅ましい生き方をしていれば、品性のない顔になるということだろうが、自分の顔をふと鏡で見て考え込んでしまった。・・・・どう見てもやくざ顔である。

「明日のことは、明日思い煩えばいい。一日の労苦は、その日一日だけで十分だ。」聖書の中にある有名な言葉であるが、ストレスをためないことが、我々中年にとって清々しい顔を保つ秘訣ではないだろうか。

受験の季節、顔にミケンのしわが寄ってしまう私は、やっぱり清々しくない・・・・残念

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2008年12月11日 (木)

子どもへの思い

保護者面談を行なっていて、お母さんが涙を流される場面に何度か遭遇する。自分の子どもが頑張っているけなげさや、育ててきた苦労やさまざまな思いが、受験学年という節目を迎え溢れてくるのだろう。

時代は変わっても、子どもに対する親の愛は不変である。自分の子どもの幸せを願わない親はいない。

生まれながらにして、何らかの障害を抱えて生まれてきたお子さんのご両親の思いはひとしおである。何とか自立できる道を子どもに与えたい、その必死の思いに、面談をしている私も感極まり涙してしまう。

普通に走れて、普通に勉強が出来る日常を多くの子ども達は当たり前のことと思っている。塾に通うこともそうである。塾の入塾説明を親子で聞きにきて、私の前で親子ケンカをはじめる方々もいる。「週3回通いなさい!」 「いやだよ。1回でいいよ」「何言ってんの、今の成績じゃどこも受かんないでしょ」 「うるせいな~じゃ塾なんかいいよ」・・・こんな感じである。

我が家もそうであるが、親子ゆえに感情が激突する。

人生は長いようで実に短い。私などつい最近学校を終えたような気がするが、気づけばもう50が近づいている。自分の子どもがもうすぐ成人を迎えるなど、信じられない気分だ。

たまに昔の写真を取り出して見ることがある。幼かった息子達の写真を眺め、時の流れをしみじみと感じる時がある。入院騒ぎで慌てふためいたことや、幼稚園での卒園式で涙が止まらなくてどうしようもなかったことなど、懐かしい思い出がよみがえる。

元気でいてくれればいい、健康でいてくれればいい、生きていてくれさえすればいい、そのような切実な思いが親の偽らない愛である。

確かに現在の競争社会では、いい学校に入ったほうが今後の生き方を考えれば子どもにとっては生きやすい道ではある。しかしいくら言葉で諭しても、理解しない時期というものがある。そんなときは、まず我が子を信じて待ってあげるのも親の愛のような気がする。

実はそんなことを、現在私は我が息子から学ばせてもらっている。

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2008年12月10日 (水)

とよ爺論

現在の教育を二分化しているものに、経済優先思想と、人材育成思想がある。一見リンクしなければならないこの教育的思想が、対極のベクトルを生み出し、教育の場を錯綜させてしまっている。

生きて行くうえで生活の糧を得ることが最優先課題であるが、人間は思想なくして生きられない存在だ。恋愛にも娯楽にもそして学びにも哲学がある。そしてそのための教育論は古代の昔からずっと語り続けられてきたし、今後も語り続けられていくだろう。

岩手の片田舎で寺子屋を営む私は、校長とは名ばかりで月曜から土曜までアシスタントの先生の力を借りながら、中学生のすべての教科、すべての生徒の教務指導をしている。もちろん時にトイレ掃除をし、塾生達の自転車の整理をするなど、すべてをこなす(・・・笑い)マルチ教師である。

そんな私が昨年経理部長兼社長である我が家内の勧めでブログを立ち上げた。塾の宣伝を目的とした、手の内見え見えのブログである。そんなある日、教育ブログを検索していて『とよ爺のつぶやき』なるおもしろいタイトルのブログに遭遇した。つぶやきジロウのパクリだろうか、何かおもろい話でも書いているのだろうかと浸入したところ、脳天杭打ちの衝撃を浴びせられた。

教育をぶった切っている。塾教師でありながら塾をぶった切っている。我々塾教師が思っていてもなかなか口に出せないことを、とよ爺なる人物が情熱ある文章にしたためいるではないか、それも毎日四つもである。私はその日から彼に惚れ込んでしまった。

残り少ない人生、今日の夕日は美しかったとか、今日うちに迷い猫がやってきたなどの優雅な記事をしたためている場合ではないと、自分に渇を入れた。仕事を通じて心の中に堆積してきた積年の辛さ、喜び、学び、そういったものをこれから人生の道を模索する人たちに、少しでも参考になるような話題が提供できるブログを心がけようと、襟を正したのである。

人間は豊かになりすぎると、貧しくなりすぎると、他人へのいたわりをどうしても見失う。学校の先生が現在、保護者の方々から厳しい批判に晒されるのは、先生の指導力と言うよりは間違いなく経済格差による人間性の喪失が原因であると思っている。経済格差がやっかみや自虐を生み出し、その波動を子ども達がキャッチしてしまっている。「俺のとうちゃん担任の先生よりいい大学出たのに、リストラにあいうちはとても苦しんでいる」。極端に言えばこんな状況が全国で生じているのではないだろうか。

上記に書いた文などは、とよ爺先生のブログに出会わなければ、私などとても書けなかった。つまり教育を小手先の目線や知識で追従しても、ニッチもサッチもいかないんだよということを、とよ爺先生に教わった気がする。

拙い私のブログ記事に、とよ爺先生は頻繁にコメントをくださる。また先生の貴重なブログのスペースに私の記事を紹介していただくこともある。私はそれをとよ爺先生の励ましと受け止めている。

「かねごんよ、お前も俺の同士だ。何とか今の教育に対し、一個の捨て石でもいい、投じてくれ」と言われているような気がする(とよ爺先生、またまた私の勝手な幻想で申しわけありません)。

私のブログも、塾・予備校ブログのご意見番であるとよ爺先生の度重なる紹介のお陰で、一年前の一日30人アクセスのブログが、おかげさまで現在は月に7000千人ほどのアクセスを頂くようになった。本当に恐縮である。

今後ともどうにかマイペースで更新を続けたいかねごんである。どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

『追伸』

とよ爺先生、勝手に『とよ爺論』なる文をしたためてしまいました。申しわけございません。どうしても書きたかったものですから公開してしまいました

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特殊能力!

私が唯一自分の意思でテレビを見るのが、お昼時の『笑っていいとも』である。暗いニュースが流れることもなく、仕事に出かける前に元気を与えてくれる番組だ。この番組も四分の一世紀を超える長寿番組になった。

生放送で毎日休みなくやっているタモリさんもすごいが、周りのスタッフもすごい。出演者の即興の機転の利かせ方は、塾教師を生業にしている私には学ぶところが多い。

その『笑っていいとも』の看板コーナーであるテレホンショッキングに、先日菊池桃子さんが出ていた。受験を迎える小6の息子さんのお話をされていたが、その時に「親ばかの自慢話みたいで恐縮ですが、うちの子教科書や本を写真のようにバシャッと写して覚えるんですよ」という発言が飛び出した。

でた~と、私かねごんは昼ごはんを食べている箸が止まった。これで三人目だ。一人目は実は私が塾教師を始めた遠い昔、26年前、四谷大塚の日曜教室でいつもトップクラスの成績を取る塾生がいた。神君という少年だった。まさに神という名の少年だったが今はどうしているだろうか。彼も「教科書をバシャッと頭に入れるんだよ」と語っていた。

二人目は7年前我が塾に来ていた中三生のY君である。彼は現在東大に通っている。そして三人目が今回の菊池桃子さんのお子さんだ。

いるのである。バシャッと写真のように頭にインプットできる生徒が・・・・。

我が家では、『ヒーローズ』という特殊能力者が登場するアメリカの映画にはまっていて、全巻レンタルで見てきたが、まさにバシャッと少年達は能力者だ。

訓練をして習得できる能力だろうか。まるで自分が目の前でページを見ているがごとく、記憶のそこから映し出してくる能力があれば鬼に金棒である。そういった子ども達が増えれば、塾は必要なくなるだろうし、教育の本質や価値観が変わってしまう。私が人生で知りえたのは三人であるが、全国にはいっぱいいるのだろうか。

例えば将棋の棋士が100手先までも読めたりするのは、そんな感じで頭の中にバシャッと映像で入っているのだろうか。凡人である私には知るよしもない。理解不能の世界である。このブログを読んでいただいている方で、私もこういった生徒を指導したことがある、もしくは私もそうだという方がおられればごぜひ意見を伺いたい。

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2008年12月 9日 (火)

緊急連絡

我が家にやってきて14年目になる雑種犬ボブが、食欲がなくなってきたので肉の缶詰を買いに行ってきた。老犬なので、歯もそんな丈夫ではなく、最近は柔らかい食パンと柔らかい肉しか食べなくなった。

家の外で番犬として飼われてきたが、飼い主に似てお人よしなので、見知らぬ人が来ても吠えることもなく、尻尾を振るしまつで、番犬には程遠い。天気が良い日はひたすら横になって日向ぼっこをしている。

14年前に、我が塾に勤めていた講師の先生がもらってきた捨て犬だったが、息子が飼いたいというので飼い始めた子犬だった。ボブという名前は、ペットショップから買ってきた犬小屋の商品名がボブハウスという名前だったので、そのままボブと名付けた。

3回ほど体調を崩し、歩けなくなったことがあったが、いつも我が家の無農薬米ササニシキを食べ元気になってきた。言わばササニシキ犬である。

最近は雌猫のキラにアイドルの座を奪われて、やきもちを焼いているボブであるが、頑張って長寿をまっとうしてもらいたい。

実は塾にも番犬が居る。二階教室の階段の途中に鎮座している。名前は同じくボブである。残念ながら置物であるが、かなりリアルである。首には塾のブログであるこのHPを紹介する看板をぶら下げている。ブログ看板犬である。子どもたちに頭をなでてもらっている。幸せ者である。

今年も押し迫ってきた。中3生は志望校決定のための三者面談が各中学校で始まる。その時になってバトルを展開する親子も毎年いるらしいが、事前の家族での話し合いはもちろん大切であるのは言うまでもない。

先週久しぶりに教室内で私の怒りが炸裂した。塾内テストの数学の成績があまりにもひどかった。特に中二の成績が目もあてられなかった。中三に意識が行っているうちに、中二をおろそかにしていたわけではないが、ひどすぎた。

(緊急連絡)

次回の塾内実力テストは社会であるが、事前に出る範囲のプリントを全員に渡すつもりだ。いつもはベスト10の公表をしていたが、次回は全員の成績を掲示する。全員100点を取るように!

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2008年12月 8日 (月)

時間は平等に流れているのか

小学校の時に、学研の付録雑誌でアンシュタインの相対性理論を読んだことがあった。もちろん小学生向きの読み物ゆえ、さわりだけの内容だったが、宇宙や時間の不思議さに我を忘れて読み耽ったことを覚えている。

先日中学生の息子が、「アインシュタインの相対性理論だと、光の速さ秒速30万キロに近い速さで移動できる乗り物が出来れば、タイムマシンも可能らしいよ」と、帰宅した私に自分から話題を振ってきた。私に期末テストの結果を聞かれる前に、話題をそらすための目くらまし戦法だったようだが、話に付き合ってあげることにした。

物理学はまったくのド素人である。がしかし光の速さがどこでも一定で変化しないことは知っている。光の速さの普遍的法則というやつである。ついでに言うと、時間という認識は時と場合によって異なるのではないか、という疑問をもち続けている人間でもある。

今週はめちゃくちゃ長かったな~とか、あっと言う間だったな~とか、皆さんも日常頻繁に経験をしているのではないだろうか。時間は客観的なものでなくて主観的な物理現象のような気がしてならない。

私の時間に対する認識は宇宙人かねごんゆえ地球人とはちと違う。過去から未来まですべての時間が存在していて、それを今を選択している人間が、無意識に選択してこの現在という時空間に存在しているような気がしてならない。違う時代に違うあなたが同時に存在しているかも知れない。そんなことを考えたことはないだろうか。

こんなことを言うと、塾生からは『マトリックス』の見すぎじゃないのと、一笑されておしまいであるが、この世界はある人間の想念が作り出したバーチャルな世界ではないかと、ふと考えることがあるかねごんである。

人間の肉体も鉱物も、小さくしていけば分子や原子にたどり着く。そもそも無である空間に、原子や分子を介して存在する無なるもの、それが我々存在物である。そしてこれらの存在は光なくして確認することはない。それはまるでスクリーンに映し出される映像と本質的にはなんら変わらないような気がする。

2次元と3次元の感覚を説明するために、私は子ども達によく蟻の話をする。

蟻が一列に並んで巣に向かって行進している。それを眺めている人間の存在は蟻には認識できていない。ひたすら前方を見つめ進んでいる。彼が、気まぐれに一匹の蟻を指でつまみ上げた。後ろの蟻はびっくりである。突然仲間の蟻が消えたのである。

蟻は蝶のように空を飛ぶこともない。空間認識がないのである。間違いなく理由もなく仲間の蟻は消えたのである。人間にとっての宇宙空間や時間認識も、進化した生命体から見たら、一匹の蟻じゃないだろうか。

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アーチスト論

音楽や芸術を鑑賞して楽しんでいるうちはいいが、クリエートするとなると突然負荷のかかり方が違ってくる。それが趣味であれ職業であれ、自分の本質というか感性と必死に向かい合うことになる。

学生時代お金のなかった私は、都内の大学の無料軽音ライブやジャズライブに頻繁に通ったものだ。音楽修行のつもりで、当時はやりだしたレコードレンタル店に入り浸り、いろんな音楽を聞いた。FMのエアーチェックも暇を見つけてはよくやったものだ。

音楽を聴くと、それが売れるかどうかは別にして、そのアーチストが音楽にこめるひたむきさというか、音楽に対する愛情の深さのようなものは間違いなく伝わってくる。

最初に打ち鳴らすバスドラの一発の音や、ギターをストロークする最初の息遣いなどで、その人間の感性や人生観、時に抱える悲しみや苦悩まで感じる時がある。だからライブはやめられない。

学生の当時、私の周りにはプロを目指す音楽家のタマゴ達がいっぱいいた。就職をすることもなく音楽をやるために7年も8年も大学に居座る輩もいた。紐のごとく彼女のアパートに転がり込み、週末ごとにギターを抱えて、ライブに行く友人もいた。私の曲にもそんな夢追い人をうたった歌が多い。

今年も師走に入り、市内の小学校でサンタミニライブを、『お話しポケット』の読み聞かせをやっているお母さん方からの要請を受けやってきた。ミニライブで恒例になった『カブトムシ』は、前奏が始まった瞬間に全校児童が笑ってどよめいてくれる。ジ~ントくる一瞬だ。

昨年、塾教師をやりながらこんなことをやっているのは私ぐらいだろうな~と思っていたら、教育ブログをサーフィンしていて、とんでもないアーチストに出逢った。山口県みかみ塾のMr.Honda先生だ。

それも受験生の応援ソングを作り、そのCDを全国の希望者に無料配送しているではないか。まったくもって只者ではない。さっそくHonda先生に勝手を言ってCDを送っていただいた。送って頂いたCDを聴いて、心から感動した。先生の歌や楽器をこなす才能もさることながら詩がいい。そして歌をうたっている先生そのものが輝いていた。

失礼だが、よくあるパターンの塾宣伝のための音楽なんかじゃなかった。本当に音楽を愛している人の音だった。現在ブログにリンクを貼らせて頂き、先生とはブログを通じて交流をさせてもらっている。私の拙いブログの文を何度も紹介いただいた。多忙の中コメントも頂いている。義理堅い先生である。塾教師ミュージシャンなのか、ミュージシャン塾教師なのか紹介の仕方が困るのであるが、いずれにしろ素敵な先生である。

先日Honda先生より、かねごん先生のアーチストの感性・・・云々の光栄きわまるコメントを頂いたが、私ははっきり言って神出鬼没のどさ回り芸人である。自称座敷わらし親父音楽家である(・・・笑い)。Honda先生のような都会的センスがないかねごんである。

今回Mr.Honda先生は新曲『サクラナミダ』をリリースしました。私のブログにリンクさせて頂いている『Mr.Hondaのココロ・トーク』をクリックしていただきますと、先生のHPにて聞くことができます。皆さん一度ぜひ聴いてみて下さい。

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2008年12月 7日 (日)

塾をやめるのは自由だけれど・・・

我々塾教師をやるものにとって、成績が上がらなくて塾を辞められるのは痛恨の極みである。自分の実力のなさを反省しつつ、納得せざるを得ない。

しかし塾に入って成績が上がってきた生徒に辞められるのは、正直何十年やってきてもショックである。

辞める時は「成績も上がってきたので、自分で頑張りたいと思います」と言いつつ、他の塾に移動していく。それも華やかなネオン輝く大手フランチャイズ塾である。それも受験も押し迫るこの時期にとなれば、本当にがっくりである。

私がブログでいつもお世話になっている唐人町中学生寺子屋の鳥羽先生が、自らのブログで次のような文をしたためていた。

11月いっぱいで3年生の女の子2名が退塾しました。この時期に2名の3年生が退塾するというのは異例です。本来この時期は塾を続けるかやめるかなんて考える余地のある時期ではありません。学校の先生や塾の先生の指導を信頼し、自分の力を信じてひたすら集中して頑張る時期です。

私も鳥羽先生の意見にまったく同じである。先生もブログで述べていたが、生徒の長所や伸ばし方を把握するまで少なくとも2,3ヶ月は必要とするものである。塾を替えるのならば、受験学年が始まる4月か、伸ばしても夏休み明けがリミットではないだろうか。

大手の塾は入試の直前まで受験生の入塾を受け入れている。そんなことで指導の責任は果たせるのだろうか。どのような電話対応や面接対応をしているのか知るよしもないが、きっと「これからでも頑張ればだいじょうぶですよ。うちの塾には講師も教材も個人塾にはない優秀なものを揃えていますから・・・」などと言うトークが炸裂しているのだろうか(・・笑い)。

私の塾では受験学年に関して、基本的に9月以降の他塾からの入塾をお断りしている。夏休み明けまでがリミットである。例外的には、お兄さんやお姉さんが我が塾の卒塾生であるとか、生徒のお父さんが私かねごんの悪友であるとか、そんな義理人情が絡んだ時は仕方がなく折れてはいるが、後は今居る塾で頑張るようにアドバイスをさせていただいている。

またこの時期、成績の伸びない原因をいつまでも自分以外の責任にし、塾を替えるのはいかがなものだろうか。納得が出来ないのなら、塾を辞めて自分で勉強をしてみてはどうだろう。私はそんなふうに考えている。

退塾なり、塾替えなり、塾を辞める理由はそれぞれであるだろうし、それは自由である。しかし問題は辞め方である。スポーツ界もそうであるが、一流選手は自分が無名の頃、指導してくれたコーチなり先生をとても大切にしている。一方、自分を育ててくれた人間を足蹴りにするような選手は、見ているとさまざまなトラブルを引き起こし、人間として大成しない。

ブログなので、あまり生々しいことは書けないが、本当にひどい辞め方というのはある。一例だが、図書券や現金で友達を勧誘させる塾に塾生が辞めて入っていく時がある。そして今度は我が塾に通っている塾生を現金欲しさに強引に辞めさせようとする。ひどい話である。

言わずもがな、そんな塾が存続できるはずもないし、そのような生徒が受験に受かるはずもない。

塾をやっている先生にはそれぞれのポリシーなり理念がある。そんなのは先生の勝手でしょと言われればそれまでだが、自分が関係した人間の理念を尊重するというのも、私は教育の大きな柱の一つだと思っている。そうじゃないといたわりは生まれない。

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2008年12月 6日 (土)

不来方高校ピンチ

岩手県はサッカーの強豪がひしめくサッカー大国である。今年は並みいる強敵を打ち破り、県立高校不来方(こずかた)が全国大会の切符を手にした。

日本を代表するストライカー小笠原満男の出身高、大船渡高校、そして全国大会の上位にいつも食い込んでいく名門遠野高校、盛岡商業、いずれも県立高校である。私学優先のスポーツ界にあって、我が県の県立高校のサッカーのレベルはすばらしい。

その不来方高校がピンチである。全国大会の出場に必要な目標額2000万円に対して、今現在60万円しか集まっていないのだと言う。実は不来方高校は、私の塾が開校した時期とほぼ同じで、今年創立21年目の若い県立高校である。OBの数が少なく、寄付金集めに苦戦しているのだ。

昨年のブログでも書いたが、我が塾は『サッカー塾』と世間から言われている。昨年度は、全国大会に出場した桜町中学校のレギュラーメンバーの8割が我が塾生であった。その桜町と、地区の決勝戦で延長の死闘を演じた一関中学校の主力メンバーも我が塾生だった。今年も男子塾生の4割は各中学校のサッカー部員である。

不来方高校は新設校ながら、非常に評価の高い高校である。芸術や語学教育に力を入れており、毎年難関校といわれる大学に多くの生徒を送り出している。我が塾からもサッカーをやりたいと言うことで、今年二人が入学した。我が塾に3年間通った生徒で、学力人格共に優秀な生徒だ。桜町を全国大会に導いた立役者でもある。

そういったサッカー少年達の頑張りを後押しする意味でも、何とか市なり、県なりの助成をお願いしたいと切に願うかねごんである。県内の企業はリストラの嵐が吹き荒れている。なかなか企業の支援が受けられない現状だ。昨日の新聞報道では、F1からあのHONDAが撤退するというニュ-スが飛び込んできた。景気回復が程遠い日本である。

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2008年12月 5日 (金)

塾の宣伝について

昨日、塾教師がやってはいけないことという記事をしたためたところ、教育ブログ界の重鎮である学心塾のとよ爺先生より賛同のコメントを頂いた。

今日は調子に乗って、塾業界で常識だと(?)思われてきたことで、私がこれは意識改革が必要だと思うことを言わせていただく。

一つに、塾のチラシについてである。私の塾では実は新聞チラシをほとんど入れない。3年間で2度ほど入れただけである。生徒が一杯いるので宣伝をしないのではなく、お金がないのでやらない(・・・笑い)。70パーセントの入塾生が口コミによる入塾である。昨年より、私のこのブログを読んでという保護者の方もおかげさまで増えている。宣伝費のない我が塾のような零細個人塾にとってはありがたいことである。

チラシでいつも気になっていることは(というより個人的に大嫌いなのだが・・)、○○高校合格何名とか○○大学合格何名という文字が、紙面の三分の一も覆いつくしている例のチラシである。そこの塾から誇り高く合格数を掲げた高校に全員が合格していればいいのだけれど、失礼だが落ちている生徒は必ずいるはずである。

その落ちた生徒の心情を考えれば、そんなチラシを私は作らない。

それからもう一点、そこの塾に一年なり、半年なり通ったのならいざ知らず、冬期講習や春期講習を受けただけの生徒も、合格人数に入れてしまうせこさも気に入らない。

昨日も述べさせていただいたが、生徒の合格という結果は、幼少の頃からの親や家庭の躾、携わってきた多くの学校の先生方の指導、そして何よりも本人の努力のたまものである。昨日のコメントでとよ爺先生も言っておられたが、塾は受験生の背中を後押しする学びの場であって、塾あっての教育ではないはずである。

塾のあり方でもう一つ苦言を呈したい。市内の塾でもやっているが、塾の窓に道路を歩いている人が見えるように、合格した塾生の出身中学校、名前、合格高校を張り出している塾がある。塾生や保護者の了承を得てのことだと思うが、一人でも落ちている生徒がいるのならばやるべきではない。

S高校は今年は50人受けて48人が合格したのだから万々歳という考えなのだろうが、2人落ちたのならば万々歳ではない。

私の塾では合格発表後の塾生の打ち上げをやらない。正確に言うとやれない。来年我が塾は開校20周年を迎えるが、打ち上げをやったのは一度だけである。全員が合格した年だ。

毎年塾生に言っていることだが、一人でも合格しない塾生がいれば打ち上げはやらない。離散会もやらない。それが我が塾のルールであり、代表者である私の考えだ。

たとえ旧帝大に受かろうが、市内の進学校に全員受かろうが、一人でも志望学校に入れなければ、その責任は我が塾にある。矛盾を感じるかも知れないが、それが塾というものだと思っている。

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2008年12月 4日 (木)

なぜ地球は23.4度傾いているのか

中学三年生の理科の授業が「天体と宇宙」に入ると、毎年やってくる質問である。「なぜ地球は23.4度傾いて太陽の周りを回っているのか・・・」

私がいくら自称プレアデス星人だからといって、知っているわけがない(・・・笑い)。地球に聞いてくれ。

地球がまるで自分の体調に合わせて、太陽に向かって日向ぼっこをしているようだ。地球にとって、10万年近く同じ傾きを維持している期間など、人間にしてみれば5分程度の時間でしかないのかも知れない。

この地球の微妙なバランスが、皆さんもご存知のように地球上に美しい季節をもたらしているわけで、季節を織りなす名曲も、地球の23.4の傾きがなければ生まれなかったわけである。

先日『12月に聞きたい1曲』という記事を更新し、私の好きな曲を紹介したところ、コメントにてタコ坊主さんことサイキッカー整体師伊藤さんより、私の12月のおすすめ曲としてビートルズの”The Long and Winding Road"を紹介いただいた。

私かねごんも大好きな曲である聞いてください。

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ザ・塾教師パート2

 ~塾教師から見た、塾教師がやってはいけないこと~

このブログを書き始め1年半を迎える。今日が記念すべき444回目の更新記事である。

私のように田舎に住んでいる塾教師と、都会に住んでいる塾教師はちょっと違うかも知れないが、塾教師がやっちゃいけないな~と思うことを今日は述べてみたい。

同業者の先生方のブーイングの嵐にあいそうであるが、どうも最近の私のブログはマンネリ化しすぎて自分で言うのもなんだが面白みがない。たまには飾らない本音をぶちまけてみるのもいいだろう。

アクセス数が増えてくると、どうもかしこまってしまっていけない。何か気の利いたことを書かなければなどと、変な欲を出してしまう。困ったものである。欲を出したところで一日のアクセス数が三桁から四桁になるわけでもない。毎日読んでくださっている方々に失礼があってはいけないと、気の小さい私は結構こう見えても言いたいことをだいぶ控えてきた。

たまには塾教師の本音を聞きたい方もいらっしゃるだろうから、言わせてもらおう・・・・。

塾教師がやってはいけないことその1。女や酒に溺れてはいけない。私もかれこれこの業界に入って四捨五入にして30年になる.。「社長、先生」などとおだてられ、夜の蝶となり飛び跳ねていた多くの先輩諸氏を見てきたが、人生の結末は厳しいものがある。自分の妻子を棄てても、悔いのない女ならいざ知らず、中途半端な火遊びはやめた方がいい。

その2。借金は良くない。こんな不安定な職業に於いて、返す当てもなく借金をしてはいけない。経営者ならば多額の借金をする前に潔く撤退すべきである。運がないのではない。この仕事に向かないだけである。

その3。塾教師は学校の先生のまねをしてはいけない。ことごとく失敗する。塾教師は「先生」と呼ばれているが、本質はサービス業である。学校の先生のように、営業をしなくても生徒が教室にやって来る公立の先生とは違う。勘違いしてふんぞり返っているととんでもないことになる。

その4。塾教師は塾生が志望校に合格した時に、自分の手柄だと思ってはいけない。本人の努力なのである。それを忘れてしまうと天狗になり、天狗ゆえに魑魅魍魎に襲われやられてしまう。

当たり前のことだが、まじめに堅実に生きることが一番の成功の秘訣のような気がするかねごんである。とは言いつつお金が欲しい・・・・・・。明日あたり年末ジャンボでも買おうかな。塾教師の本音である・・・・。

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2008年12月 3日 (水)

雪原のキャッチボール

昨日の夕焼けは綺麗だった。塾の二階から眺める一関の夕日は、ちょうど須川岳に沈んでいく。磐井川の堤防に立ち並ぶ桜並木の葉がすべて落ちるこの時期、山すそに沈む夕日が教室から展望でき、幻想的だ。白鳥が舞い、夕陽に重なりあう瞬間、私は冬の風景の中に紛れもなく神を見たような幻覚にとらわれる。

遠くで聞こえる焼き芋の拡声器の音も、すぐ前の高校の庭から響いてくるテニスボールを打ち合う音も、夕暮れ時のさざなみに沈黙し、大きな太陽の沈む音がまるで聞こえてくるかのような雄大な風景だ。

この寒い季節、夕暮れ時になると思い出す生徒がいる。10年前T君がお母さんに連れられ塾にやってきた日も、こんな綺麗な夕暮れの日だった。

当時平屋建ての教室だったゆえ、山ぎわに沈む夕日が土手に登らないと見えなかった。私は磐井川の土手てぼんやり夕日を眺めていた。すると教室の前に車が止まり、私の塾の様子を眺めている親子がいる。それがT君との最初の出会いだった。

16歳のT君は、軽度の自閉症だった。高校を受験したものの受からず、自宅に引きこもっていた。

私に慣れてくると、いろんな話をしてくれた。今年引退した清原が大好きな少年だった。塾に来るたびに、清原の活躍ぶりを私に興奮気味に話してくれた。1年半通ってきてくれた。

雪が20センチも積もった川土手で、T君とキャッチボールをしたことがある。それも激しく雪が降る日だ。自宅から彼は、ミットとグローブを抱えてやってきた。前日の清原のホームランに刺激され何か行動を起こしたかったのだろう。

冬になり雪が真っ白に積もった磐井川の河川敷を見ると、いつもあの日の輝いていたT君の顔を思い出す。4年後彼は天国へ行ってしまった。20年の短い生涯だった。血管注射によるショック死だった。

天国で清原の引退試合を見ていただろうか。清原の涙に彼はきっと声をかけていたにちがいない。「ご苦労様」と。

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2008年12月 2日 (火)

私のツインソウル

その人の本棚やCDラックを眺めると、その人の思考ベクトルや感情ベクトルが垣間見えてくる。

似たような感性の人と出逢うと、嬉しくもあり、この人も私のような苦悩を抱えたり感情の起伏を抱え込んでいるんだろうなと思う。

音楽もそうである、アーチストが作るメロディーなり、詩の世界も小説や評論同様、同系のタイプと出逢ってしまうと聞き入ってしまうが、時に感情移入が激しくなり息苦しくなることはある。自分の代弁者としての芸術にはまり込んでいくと、自分の個性を見失うこともしばしばだ。

私が二十歳の頃、感情移入してしまったミュージシャンがいた。永井龍雲である。彼の詩を読んでいると、自分の感性が彼に乗り移っているのではないかと見間違うほどの錯覚を覚えた。しまいには彼が自分の詩をパクッテいるのではないのかというほどの詩の類似性に苦笑いをしてしまっている自分がいた。本当に変な感覚である。

永井龍雲は、私のツインソウルだと思っている。

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麻生首相では戦えない

ちょっと古い記事であるが・・・・。

麻生太郎首相が12日、母校の学習院大学で開かれた日中両国の交流事業
「日中青少年歌合戦」でのあいさつで、「頻繁」を「はんざつ」と言い間違える場面があった。
首相は、用意した文書に目を落としながら、12月に日本で開かれる日中韓首脳会談に触れ
「1年のうちにこれだけ『はんざつ』に両首脳が往来したのは過去に例がない」と語った。
さらに、今年5月の四川大地震に関するくだりでは「未曽有の自然災害」を「みぞゆう」と読み誤った。
首相は7日の参院本会議でも、自らの歴史認識を問われ、アジア諸国への侵略を認めた
1995年の村山富市首相談話を「踏襲する」と言うべきところを「ふしゅうする」と答弁している。 
11月12日21時6分配信 時事通信

わが街一関市に先週の土曜日(11月28日)、麻生さんが街頭演説にやってきた。午前中塾に来ていた中三の女の子達が、見に行ってきたらしい。

反応はなかった・・・・・・。半月前の首相の漢字間違えに親近感を覚えて見に行ってきたようだが(実はブログで結構私も漢字の間違いをするので、塾生から親近感をもたれている・・・)、「小沢の方がいいんじゃない、自民党は麻生では戦えない」などと発言をする塾生の声を聞いていると、いよいよ政権維持も難しいな~と感じるかねごんである。

生徒の発言と言えば先日こんなやり取りがあった。「かねごん先生、義務教育なのに学校の学級費って毎月6000円も取られるのおかしいよね」。学校の先生の中には、塾の月謝が高すぎるとおっしゃる方もいるが、我が大験セミナーの週一回コースの月謝は、公立中学校の学級費より安い。

うちの息子も小さいほうは、まだ中学生なのでもちろん学級費を払っているが、ワーク代がそのうちの大半を占めている。ちなみに我が塾ではご父兄の負担を考え、夏期や、冬期講習以外は極力ワークは使用せず、プリントで指導している。

立派なワークを与えても、そのうちの40パーセントのページは効果を発揮せず、ただ答だけが書き写されていく。それが現実である。

政治とてそうである。莫大な予算が投じられても、その四割は、どぶに棄ててるとまでは言わないが、利権に群がる企業や人間達の撒き餌になっているような気がしてしょうがない。

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2008年12月 1日 (月)

ただ食いの一日

昨日は市内のPTAのスポーツ交流会で、卓球に参加してきた。我が塾の2期生で現在小学校教員であるS先生が、子どもを一緒に連れて来ており、挨拶を頂いたが、すっかり父親の風格が漂い凛々しかった。

また中学校時代私とダブルスを組んで、大会で優勝したことがある(人生に於ける唯一の優勝経験であったが・・・)後輩のM先生は地元小学校の教頭先生になっており、これまたご丁寧な挨拶を頂いた。PTA交流会は小学校1年生のご父兄から中学校3年生までのご父兄の集まりなので、完全に私の息子のような世代のお父さん方もおり、13年目の参加の私は時代の流れを感じてしまった。と言うか年を感じてしまった。

早々と我々の即席の中学校チームは予選で敗退し、弁当を食べて帰ってきたのであるが、夜の反省会は盛り上がり、昨夜は夜の11時に帰宅した。

地域の卓球振興の話題と、来月に迫った一関一高付属中学校入試の話題が錯綜し、酒のパワーも加わり、ご父兄の本音が伺えてとても有意義な宴会であった。ちなみにウーロン茶で付き合っていた私に気を遣っていただき、参加費0円という待遇で食させていただき恐縮であった。卓球メンバーの皆様ご馳走様でした。ありがとうございます。きっと皆さん今日は二日酔いかな・・・・・。

食させて頂いたと言えば、夕方家内と千厩で開催された、手織り・草木染の服”うさと展”におじゃましてきた。先週より私のブログにリンクさせて頂いている、ブログ『一期一会』の整体師の先生伊藤さんの紹介で行ってきたのであるが、そこにちょうど集っていたお母さん方より、いきなり「先日の飛び入りライブの歌素敵でしたよ」と見知らぬ美女方に言われ、ドキドキのかねごんであった。聞けば、秋に平泉の吉野屋さんで行なわれた音楽祭に、私が飛び入り参加したした時に見に来ていたご婦人方であったのだが、世間は狭い・・・・・。

展覧会終了後、会場のオーナーである遠藤さんより打ち上げの食事会にまで招かれ、伊藤さんや伊藤さんの奥様等と、丹精込めたおいしいお食事を頂いてきたのである。昼ごはんも、夕食も、そして夜の宴会もすべてただで頂いてしまったずうずうしいにもほどがある、昨日のかねごんであった。

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12月に聞きたい1曲

「かねごん先生、ブログで紹介する曲はいつも私達がこの世に存在する前にはやった曲ばかりでつまんない」と強烈なご批判を塾生より頂いた。ごもっともである。

私かねごんが、この寒い北国の12月、心に染み入る大人のバラードを紹介しよう。おこちゃま達にはこの曲の良さが分かるかどうか疑わしいが、私のブログを読まれているお母さん、お父さん方どうぞ泣いてください。

クリスティーナ・アギレナ『HURT』です。

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