指導者の本質
世間でよく言われるように、優秀な学者が優れた指導者とは限らない。指導者の力量はその人の学歴や、偏差値では到底はかれないものである。
ブログを読んで頂いている方はご存知のように、私は40年近く卓球をやっている。よたよたになりながらも、今でも市内大会に出て懲りずに中学生や高校生を相手に試合をやっている。心底卓球が好きである。かと言って指導はというと、精神的なアドバイスは何とかでできるが、技術指導となるとてんでダメである。
長年卓球の試合をすることを楽しみにしてきた私は、試合相手のどこが攻めやすく、どこが難攻不落のプレーヤーなのか観察することが好きである。長年の習性がぬけない。プレーヤーの弱点をどう修正するのかという発想に欠ける人間である。したがって私はスポーツ評論家タイプで、指導者タイプではない。
これが勉強の指導となると真逆である。卓球の場合は自分が感覚的に身体が覚えたプレーをしてきたがために、人に教えることは苦手だが、一方勉強は自分が出来なかったがゆえ、習得する苦労をあじわったがために出来ない生徒の気持ちは手に取るようにわかる。
例えば数学の授業で、因数分解の基礎理論がチンプンカンプンの生徒が私の指導を受けると、ほぼ10分間で教科書の10ページ分の内容を理解してくれる。そんな芸当が出来るのも私が苦労した経験があってのことだ。
高校生が習う関係代名詞もそうである。難しいとされている英語の関係代名詞Whichと関係副詞Whereの使い分けなども、カップラーメンが出来上がる3分の時間で納得させる自信がある。
こんなことを書くと、自信過剰のやつだなと思われるかもしれないが、中学3年から高校1年にかけて英語の成績が鮮やかに2だった私が、塾生を早慶や東大に合格させることができ、40年近く卓球をやってきた私が、卓球の指導がままならないと言うのは、私の例で恐縮だが象徴的ではないだろうか。
自分がどうして塾教師になったのだろうと、ふとこの年になって考えることがある。きっと自分が苦しんだ勉強の辛さが、自分を今の仕事に導いたんだと思う。
たかだか、国、社、理、数、英の結果で選別されてしまう15の春という現実に、塾教師という仕事を通じて反抗し続けているのかもい知れない。そんな気がする。
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