公衆電話が消えていく
ケータイを持たない私にとって、困ること。それは公衆電話が街から消えていくことである。自宅から塾まで20キロ弱の道のりであるが、その間公衆電話があるのは5箇所。この数が昨今の状況に於いて多いか少ないかは別にして、緊急の連絡は大変である。
ケータイを持てば良いだけの話しと片付けられては困るのである。このブログで何度も主張してきたことの繰り返しであるが、小学生や中学生にケータイはいらない。実は大人も必要ないと思っている。
ケータイ文化が現代人に与えた衝撃度は計り知れない。便利さの見返りに、品性をなくしてしまった大人が蔓延し、大人の醜い側面だけを見せつけられる青少年達が増えてしまった。
ケータイの普及率とリンクするがごとく、日本人の離婚率はあがり、若年者の妊娠、中絶が増え続けている。親御さんは、自分の子どもが誰と付き合いどんな関係なのか知る良しもない。
塾ではもちろん携帯電話の使用を禁じている。がしかし、「先生トイレに行ってきま~す」と頻繁に教室から出て行くものがいる。何をやっているのかというと、彼女からのメールの確認である。塾でもやっているのだから、自宅での様子は想像に難くない。勉強に集中できる環境は残念ながら構築されない。
私が住む山の中も、いたるところに携帯電話の中継アンテナの塔が建った。ほぼ受信エリアは網羅されたようだ。トラクターに乗りながら携帯電話を使っているおじさんたちの姿も珍しくなくなった。私の隣のおばあさんは畑で携帯電話を使っている。
「便利さの何が悪いのですか」そんな批判が聞こえてきそうである。私もPCのお陰でこうやってブログで自分の考えを全国に発信しているのだが、携帯電話やパソコンの普及により情報がめまぐるしく駆け抜けていく。言わば押し寄せる情報を取捨選択する能力が問われる時代なのだが、情報と言う目に見えない巨大な宗教の洗脳化が始まっているような気がしてならない。
先日筑紫哲也さんが亡くなられた。私が20代の頃、朝日ジャーナルに寄稿されていた筑紫さんの論評は過激だった。朝日ジャーナルがゆえに書けた文章だったような気がする。宗教や天皇制をずばりと切り込んでいく彼の正義感的辛らつな言葉の連続に、わくわくドキドキだった。当時の論評を現在ブログでやったら間違いなく炎上である。
誰でも好きなことが言える時代になった。携帯電話で飛び交う情報の中には、愛のメッセージもあるだろう。他人に対する揶揄もあるだろう。嫌がらせもある。励ましもある。
本来なら人と人が対面して伝えなければならないことを、便利さに便乗して簡単に済ましていないだろうか。人間と人間のコミニケーションを繋ぐ筈の携帯電話が、逆に人間関係を希薄にしているように私は思う。
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